第28話 夏祭り・夜
夕方まで談話を楽しんだあと、浴衣に着替えるため、まずはダンテが紫乃の部屋に通された。机の上には紫乃の作った浴衣や購入してきた帯などが置かれている。
「さ、服脱いで」
紫乃に言われた通り、ダンテは着用している衣服を脱いでいく。
それから手早く浴衣を着させて着付けを行った。
男性の着付けは女性に比べてとても簡単だ。背中の中心から背の縫い目がずれないように身体の前で重ね合わて衿の位置を調整し、腰紐を腰に巻き付け、腰骨の高さで固定する。
その上から帯を巻いて、やはり身体の前で結び目を作り、崩れないように後ろへずらしてやれば、男性用の一般的な角帯の完成である。
ダンテ用に紫乃が作った浴衣は、臙脂色の生地に芥子色の細い格子柄の生地で、帯は白地に黒い横縞だ。
「やっぱり着てみると洋服と違うもんだな」
「そうだね」
ダンテの脱いだ服を畳んでいると後ろから抱き締められた。
「どうしたの?」
「今日あんまり紫乃に触れてないから」
ダンテは少し身をかがめ、紫乃の首筋に唇をそっと当てる。少し乾いた唇は白い肌に吸い付き、その柔らかさを楽しむかのようにゆるりと啄ばめば、紫乃がほんのわずかに喘いだ。
「っ……ダンテ……」
これから浴衣に着替え外出するのだから、肌に跡を残さないよう、やわやわと軽く啄ばむだけ。すぐに首筋から唇を離すと紫乃をくるりと回転させ、今度は彼女の唇を啄ばんだ。
「ん、っ……ぅ……」
しばらく唇の柔らかさを堪能したダンテは、名残惜しそうに離れる。
「もっと楽しみたいんだが、これ以上は俺が我慢出来そうにない」
「……もう……」
紫乃がほんのりと頬を染めながら苦笑した。
「んじゃ、由摩呼んでくるぜ」
そう言って、ダンテは部屋から出ていった。
『さすがは紫乃、手慣れてるわね』
ダンテと入れ替わりにやって来た由摩が、紫乃に着付けてもらった浴衣をまじまじと見下ろした。
明るい黄色を基調とした花柄の浴衣、蝶が描かれた蘇芳色の帯。髪には淡い珊瑚色の花飾りを付け、華やかさを引き立てている。
由摩の着付けが終わったら、次は紫乃自身の番である。
浴衣に着替える前に化粧と髪型のセットを済ませたら着付けに移った。まずブラジャーははずして和装下着を身に付け、浴衣を羽織る。その際、由摩が紫乃の胸を見つめてきた。
『んー? 前より胸、おっきくなった?』
『そんなことないよ』
『そうかなぁ? あー……ダンテにおっきくしてもらってるのか』
『ちっ、違うわよ!』
それなら納得、とニヤニヤ笑う由摩に紫乃が否定しても余計面白そうに笑うだけだったので、それ以上何も言わないようにした。
それから紫乃は左右の衿を重ね合わせて腰紐をしっかりと巻き、おはしょりを整える。さらに着物用のベルトを締めて浴衣を微調整し、伊達締めを巻けば浴衣の着付けの出来上がりである。
帯は花文庫結びと呼ばれる、シンプルながらも可愛らしい帯結びだ。
『よし、完成』
紫乃の浴衣は、黒地に白く描かれた花柄で、花びら部分は淡い桜色でぼかすように色付き、帯は白に銀鼠の麻の葉柄。まとめ上げた髪には白い花飾りが添えられている。
『大人っぽくて似合ってるよ、紫乃』
『ありがとう。由摩こそ似合ってる』
自分と由摩の着付けが終わると、紫乃はあらかじめ用意していた二つのバッグのうち片方を由摩に差し出した。竹籠と巾着がセットになった小さなバッグだ。巾着の中に財布や携帯電話、ハンカチなどを入れれば、外出の準備は万端である。
紫乃の部屋を出て居間に向かい、冷房で涼んでいるダンテに呼びかけた。
「ダンテ、お待たせ」
浴衣姿の紫乃と由摩が居間に行くと、ダンテが残り少なくなったお菓子をつまんでいた。
二人は洋服とは違う雰囲気で、まさに浴衣美人という言葉が似合っている。
「凄い綺麗だ。二人ともよく似合ってるぜ」
無駄な言葉で飾り立てないダンテの素直な感想に、紫乃と由摩ははにかんだ。
* * *
夏祭りの会場は神社の境内である。神社は大きくはないものの、たくさんの出店が並び、多くの人で賑わっている。
「へえ、これが夏祭りか」
行き交う人々を眺めたダンテが呟いた。
女性の多くが浴衣で、女性よりは少ないが浴衣を着た男性も見受けられる。家族、友人、恋人。連れ立っている彼らの間柄は様々だが、どの人間も楽しそうな表情だ。
夏祭り会場に到着すると由摩は別行動となった。最近付き合い出した男性とのデートに向かったのだ。
「出店って何があるんだ?」
「いろいろあるよ。食べ物があったり、ゲームが出来たり」
食べ物関連は、焼きそば、綿飴、たこ焼き、リンゴ飴、クレープ、焼き鳥、焼きトウモロコシ、かき氷など。他は金魚すくいや射的、くじ引きなどがあり、子供向けにアニメやヒーローの仮面を揃えた店もある。
ふと、ダンテが出店のある方向とは違う方へと視線を向ける。一瞬何かを感じたがまるで溶けるかのようにすぐに消えてしまった。
「ダンテ、どうしたの?」
「……いや、何でもない。紫乃に見惚れてた男がいたみたいだ」
紫乃に余計な心配をかけさせまいと、いつもの軽口で誤魔化せば紫乃が笑った。
「あはは、そうなの? 私は逆に女の人の視線が気になるよ」
周囲を行き交う人々、特に女性が何人もダンテをちらちらと見ている。背が高くて顔立ちも良く、おまけに珍しい銀髪なのだ。ただ立っているだけで人目をひいてしまう。
それにしても、とダンテは紫乃を見下ろした。いつも軽やかに揺れる髪は頭の上でまとめられているため、白いうなじが晒されている。
「んー、キスしたくなるうなじだ」
「だ、駄目だよこんなところで……」
「冗談だ」
くすくす笑うダンテに、紫乃はまたからかわれたのだと知り、一人で先に歩き出した。そんな彼女のあとを、ダンテは悪いと謝りながらもその顔は笑っていた。
ダンテと紫乃は焼き鳥などを食べ歩き、次はクレープ屋へと足を向けた。様々な種類の中からダンテが選んだのはやはりイチゴだった。そんな彼に相変わらずだねと笑うと、紫乃はチョコレート&ナッツを選ぶ。
「紫乃、一口くれよ」
「はい、どうぞ」
ダンテは差し出された紫乃のクレープを一口かじる。チョコレートとホイップクリームの甘さと、ナッツの香ばしさがマッチしていて美味しい。わけてくれたお返しとして、ダンテも自分のクレープを紫乃に与える。
「ん、美味しい」
イチゴの酸味とホイップクリームの甘さがちょうど良かった。
それからも会場内を見て回る二人が次に足を向けたのは射的屋。店の奥に駄菓子やおもちゃが並んだ棚があり、コルク栓を詰めた射的用ライフルで景品を狙うゲームだ。
「ねえ、射的やってよ」
紫乃がやり方を簡単に説明すると、ダンテは快く引き受けてくれた。
「どれが欲しいんだ?」
「うーん……あ、あれがいい」
紫乃が指差したのは黒い猫の人形。
「マハみたいで可愛い」
「……人形の方が可愛いな」
いつも事務所ののソファーに陣取り、紫乃以外にはツンとした態度しか見せない彼を思い浮かべる。マハとこの人形どちらが可愛いかと聞かれたら、ダンテは断然後者を選ぶ。
それでも紫乃の頼みを断る理由はないので、ダンテは店主の男からライフルを受け取ってコルク栓を詰め、構えた。
『兄ちゃん、外国の人かい?』
『あ、はい、アメリカ人です』
店主の男──年齢は五十代だろうか。周りが日本人ばかりで外国人はダンテくらいしかいない。それが珍しくて店主の興味を惹いたらしく、紫乃に話しかけてきた。
日本語で話しかけられたので、紫乃も日本語で返答する。
『いやぁ、本場の人が構えると様になるね。姉ちゃんのいい人かい?』
『ええ、婚約者なんです』
『そうかい、どうりで仲がいいと思った』
にこりと笑う店主につられて紫乃も笑みを浮かべた。
そんなやりとりをしていると、ダンテが黒猫の人形にコルク栓を当てて早速景品を獲得する。
「凄い、一発で当てちゃった」
「これくらいわけないさ。ところで、店の親父は何て言ってんだ?」
日本語がわからないので紫乃と店主の会話には参加しなかったが、やはり何を話していたのかが気になる。
「ダンテがかっこいいって」
「そりゃ嬉しいね」
次はどれを狙おうか景品の品定めをしていたダンテの目にとまったのは、紫乃の家で出たお菓子だった。
「紫乃、ゲーム出来るお菓子があるぜ」
「え? ……う、うん……」
何かと思ってダンテの視線の先を辿ってみれば、あの細長いチョコレート菓子だった。恥ずかしいことしか思い出せず、紫乃の声が自然と小さくなってしまう。
お菓子以外を獲得させようと景品を選んでいる紫乃の耳に、小さな子供の泣き声が届いた。
「……ねえ、迷子がいるみたい」
辺りを見渡してみても姿は見えなかった。というよりも、溢れ返る人間が邪魔で子供の姿が確認出来ない。
「ちょっと見てくるね。親御さんが捜してるはずだから、本部にも行ってくる。すぐに戻るから」
「ん? ああ、わかった」
その場を離れることをダンテと、念のため店主にも伝えると、紫乃は泣き声のする方へ向かった。
* * *
「何処にいるんだろ……」
人々を掻き分けるようにして会場内を歩き回ったが、何処にも子供の姿が見当たらない。泣き声のする場所には近付いているのに。
それにしても、何故他の人間は泣き声に気付かないのだろうか。こんなにはっきり聞こえているのにと思いながら進めば、ようやくそれらしき子供を見つけた。
人もまばらなその場所は、神社の周囲を取り囲む森の入り口だった。幼稚園児くらいの男の子がうずくまって泣いている。
「ボク、どうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」
子供が怯えないように優しく話しかけると、子供は頷いて顔を上げた。
「うん……ひとりになっちゃった……」
「泣かないで。大丈夫、お姉ちゃんがママを捜してあげるから」
行こう、と子供に手を差し出すと、小さな掌がぎゅっと握り締めてくる。ずっと泣いていたせいで濡れている頬を、バッグから取り出したハンカチで拭いてやれば、子供はようやく涙を引っ込めた。
「本部に──ママと会えるところに行こう?」
「えっと……こっちにいるの」
辺りを頼りなくキョロキョロと見回していた子供は、紫乃の手を引いて歩き出した。その方向は人の多い境内ではなく、森の中。
「え、そっちなの? そっちは森しか……」
逡巡する紫乃を子供がぐいぐい引っ張り、森の中をどんどん進んでいった。明るい境内から遠ざかっているため森の中は暗い。
紫乃は半魔であるから暗がりでも物は見えるので問題ないが、この子供は何も見えないのではないか。それなのに、立ち並ぶ木にぶつかることなく進んでいく。
「……ねえ、何処に行くの?」
「…………」
「こっちは森で、ママいないよ?」
「…………」
おかしい、と不審に思ったが遅かった。立ち止ろうと子供の手を引いたが、子供のものとは思えないほどの力で逆に引っ張られる。あまりにぐいぐいと手を引かれるものだから、はずみでかごバッグを落としてしまった。それを取りに戻ろうとするも、子供は構わずどんどん前へ進んでいく。
「ねえ、待って! お願い!」
いくら立ち止ろうとしても出来なかったのに、紫乃がそう叫ぶと子供は突然立ち止った。そのことに驚きながらも紫乃も足を止め、子供を見つめる。
「ボク、戻りましょう。こっちは誰もいないわ」
子供の手を引いて来た道を戻ろうとした紫乃を、男の声が呼び止めた。
「──お待ちください」
* * *
「紫乃の奴、遅いな……」
紫乃が射的屋を離れてからどれくらいの時間が経過しただろう。あれからダンテは、店主から受け取ったコルク栓を全て景品に当ててお菓子を獲得した。
バッグなどを持っていないダンテのために、店主がビニール袋を差し出してくれたので、ダンテはそれに景品を入れて紫乃を待っていた。それなのに彼女は戻ってこない。
『姉ちゃん遅いな』
店主がダンテに話しかけても、日本語の通じないダンテは何と答えていいかわからない。
『兄ちゃん、ちょっと待ってな。本部に行って迷子が来たか確かめてくる』
そう言うと、店主は隣の出店の人間にしばらく留守にすることを伝え、自分の店を離れた。
手持ち無沙汰になったダンテは、往来の中に紫乃の姿がないか見渡すが、やはり彼女はいない。そうやってキョロキョロしている姿が余計に目立つのか、周囲の女性がちらちらと視線を寄越してくる。
連れとはぐれた時はその場を動かないことが一番なのだが、いつまでもじっとしておけない性分のダンテにしてみれば、ただ待っているだけでは焦りがつのるだけだ。射的屋の店主は何処かに行ってしまったし、そろそろ自分も紫乃を捜しに行こうかと思った矢先、聞き慣れた声がした。
「あれ、ダンテ? 紫乃はどうしたの?」
振り返れば由摩が立っていた。彼女の隣には由摩と同じ年頃の若い男がいて、由摩は彼にダンテのことを紹介する。どうやら彼が由摩の彼氏のようだ。
「ああ、由摩か。少し前に紫乃が迷子がいるって言ってどっかに行ってな。それから戻ってこないんだ」
「ええ!? ちょ、ちょっと電話してみるよ」
由摩は彼氏に待ってもらうよう言うと、かごバッグから携帯電話を取り出し、紫乃の番号へ発信する。しかし、呼び出し音は鳴っても紫乃は出なかった。
「……駄目、出ない」
ダンテは小さく舌打ちをした。
以前、紫乃はスラム街でゴロツキに絡まれたことがある。ここは日本で銃もないからあの時のような物騒な事態にはならないとは思うが、万が一ということもある。
何故彼女を一人で行かせてしまったのだろうか、と後悔していると射的屋の店主が戻ってきた。
『兄ちゃん、本部には迷子なんて来てないそうだ』
由摩を介してそのことを聞いたダンテの足がすぐに動いた。同時に紫乃の行方を追うために何とか気配を探る。そうすると、彼女の向かった方向にほんのわずかに残っていた気配を感じ取った。
「由摩、助かった。あとは俺が何とかするから、彼氏と楽しみな」
それと、射的屋の親父さんにもよろしくな。
そう言い残して、ダンテは人ごみの中に姿を消した。
* * *
「──お待ちください」
紫乃を呼び止めたのは男の声だった。立ち並ぶ木の陰から姿を現したのは、長い金髪を一つにまとめた長身の男。
海のように深い青をたたえたその瞳を見つめていると、まるで魅了されたような錯覚に陥る。
ふと手元が軽くなったような感覚がしたので視線を下げると、あの男の子がいなくなっていた。
「消えた……。あなた、誰……ですか?」
男の子が消え、男からただならぬ雰囲気を感じ取った紫乃は、警戒していつでも逃げ出せるように身構える。
「私はダンタリオンと申します。今のお子は私の作り出した幻覚です。あなたのお名前を伺ってもよろしいですか」
「……紫乃、です」
そうか、幻覚だったから紫乃以外の人間には子供の姿や泣き声を認識することが出来なかったのか。
西洋の貴族のような出で立ちだが、丁寧な話し方はまるで執事のようだと紫乃は思った。
「モリアン様、ではない……?」
眉尻を下げる男から母親の名前が出て、紫乃わずかに目を見開く。
「母を知っているんですか?」
「あのお方は私の所有者でした。モリアン様のお嬢様ということは、あなたは半魔ですね」
「はい……あの、母があなたの所有者というのはどういう……?」
紫乃が尋ねると、ダンタリオンは順を追って説明を始めた。
モリアンが魔界にいた頃、彼女の魔具として仕えていたこと。やがてスパーダが魔帝に反旗を翻すと、モリアンと共にダンタリオンも人間界へ移ったこと。月日は流れてモリアンが人間の男と出会い、夫婦となったこと。
「お子様がお生まれになる前に、私はモリアン様より魔界に戻るよう仰せつかりました。魔帝侵攻の危機がなくなった以上、私を魔具として縛り付けることはしたくない、と」
──ダンタリオン、あなたは自由よ。
今でもモリアンの声をはっきりと思い出すことが出来る。
──この国は悪魔がいないから、あなたを使うことはないわ。
穏やかで、それでいて寂しそうな声。
──だから、魔界に戻りなさい。
彼女としても長く仕えてくれたダンタリオンと別れたくはなかったのだろうが、悪魔のいない日本で暮らすと決めた以上、強力な魔具は必要のないものだ。
「もう一度モリアン様にお会いしたいと思い、魔界を出たのです。モリアン様は今、どちらに?」
母の名を口にするダンタリオンの目元は穏やかで、嬉しそうにしているのがわかるほど、その声は弾んでいた。それだけで、どれほど母を慕っているのかがわかる。
だから、言いにくかった。
「……母は……亡くなりました」
その一言でダンタリオンの顔がたちまち曇ってしまった。これだけ慕っている彼に打ち明けるのは紫乃も辛かったが、話さなければならない。意を決して、母の最期をダンタリオンに打ち明けることにした。
十三年前、母の能力を狙った悪魔に襲われ、家族を守って亡くなったことを告げると、ダンタリオンは肩を落とした。
「そうですか……私が魔界に戻らなければ、あるいは……」
悔しそうに視線を落としていたダンタリオンだったが、ぱっと顔を上げて紫乃を再び見つめる。
「その悪魔はどうなったのですか」
「えっと、実は私もその悪魔に狙われたんですが、ひと月ほど前に助けを借りて倒しました」
「助け……?」
「ダンテって名前、知りませんか?」
「ああ、スパーダの息子と聞いております。なるほど、その者が討ち取ってくれたのですね」
ダンテとの面識はないが、魔界でも彼の噂は聞き及んでいた。
悪魔がまだ存命中ならば自ら出向いて倒していたところだが、彼が助力してくれたのだと知るとダンタリオンは胸を撫で下ろす。モリアンの娘の命を救ってくれたダンテは、ダンタリオンの中で恩人ともいうべき存在となった。
人間界へやって来た最大の理由のモリアンがいないとわかった今、ダンタリオンはひとつの決心をする。
「お嬢様、お願いしたいことがございます」
「な、何でしょうか」
ダンタリオンが姿勢を改めたので、紫乃もつられて背筋をぴんと伸ばす。
「私を魔具としておそばに置いてはいただけないでしょうか」
「え……?」
「私が魔界に戻ったばかりにモリアン様をお守りすることが出来ませんでした。ならばせめて、モリアン様の残された宝であるお嬢様をお守りしたいと思います」
「でも、魔界に戻らなくていいんですか?」
「構いません。魔界にはもう何の未練もございません」
きっぱりと答えるダンタリオンは、まっすぐ紫乃を見据えていた。彼の深い青の瞳は揺らぎないものだった。
「まあ、私も断る理由もありませんし……」
「ありがとうございます! ……あの、もうひとつお願いしたいことが……」
自分に出来ることならいいんだけど、と考えていると、
「悪魔となられたお嬢様のお姿を拝見させていただけないでしょうか」
意外な頼みごとをされた。もし難しい頼みごとだとどうしようと密かに危ぶんでいたのだが、思ったよりも簡単なことで良かったと安堵する。
「それくらいお安いご用です」
そう言って、紫乃は目を閉じて内なる魔力を開放し、全身の細胞ひとつひとつに行き渡らせる。
デビル・トリガーの発動であった。
全身に膨大な魔力が満ちると、紫乃の姿が人間のものから悪魔へと変貌する。女性特有の曲線を持つ身体と、白と紫の天使のような大きな翼。それが、紫乃の悪魔としての姿だった。
「流石はモリアン様のお嬢様……魔力や気配だけではなく、お姿もお母様とそっくりです」
ダンタリオンは、どこかうっとりとした恍惚の表情で紫乃を見つめる。色や細部に違いはあれど、その姿はモリアンとよく似通っていた。
「やはり、お嬢様は私を所有するのに相応しいお方です」
紫乃の魔人化した姿を一目見て満足したダンタリオンは微笑んだ。
「ありがとうございました。この身、あなたに委ねましょう」
ダンタリオンは。かつての主に仕えていたことに思いを馳せた。当時はモリアンと共に、人間界へ侵攻してくる同胞達を屠っていた。それがこれからは彼女の娘の魔具として再び仕えることが出来るのだ。これ以上ない喜びに、ダンタリオンの顔は自然と微笑みが浮かぶ。
いよいよ魔具として己の姿を変じさせようとした時、
「──紫乃!!」
一人の男がこちらへ走ってきた。
* * *
ダンテは境内を離れ、紫乃の気配がする方へ走っていた。普段ならしっかり感じ取ることが出来る気配が、今は靄がかかったようにはっきりとしない。
最初は人間の男に連れて行かれたのかと思ったが、彼女の気配を薄めてしまうなんて芸当は人間には無理だ。
ならばもう一つの可能性は──
そこまで考えると、暗闇の中に見覚えのあるものが落ちていた。それは、家を出る時に紫乃が持っていたかごバッグだった。
「……落としたから由摩の電話にも出なかったのか……」
そう合点すると、ダンテは再び森の中を駆ける。
はっきりとしない気配を辿っていけば、強い魔力を感じた。一瞬悪魔の襲撃かと思ったが、慣れ親しんだその魔力にその考えを否定する。
それにしても、彼女のそばに別の魔力を感じるのは何故だ。やはり悪魔が彼女を連れ去ったのではないか。
焦る気持ちを抑えつつ、やがて見えてきたのは二人の姿。悪魔の姿に変じた紫乃と、もう一人は背の高い西洋を思わせる衣装を身にまとった男だった。
「──紫乃!!」
二人の間に割り込み、紫乃を背に庇う。
「ダ、ダンテ!?」
紫乃は驚き、悪魔から人間の姿に戻ってダンテを見上げた。マンモンとの戦闘でも滅多に息を切らすことのなかった彼が、今はその両肩が大きく上下し、浴衣の衿も乱れている。
「おい悪魔……俺のdarlingを誘拐するなんて、いい度胸してるじゃねぇか。さっき一瞬感じた気配はお前のものだったか」
神社に着いた時に一瞬感じた何かが、目の前の悪魔の気配だとダンテは察知した。明らかに敵意をむき出しのダンテは、いつダンタリオンに襲いかかってもおかしくない状態だった。
「武器がないから思いきり叩きのめせないが、誘拐犯なんざ素手で充分だ」
ダンテはダンタリオンを睨みつけたままの状態で、紫乃に拾ってきたかごバッグと射的屋の景品の入った袋を手渡す。
「ま、待ってダンテ! 落ち着いて! これには理由があるの!」
「……理由?」
そこでようやく紫乃に顔を向けたダンテに、とりあえずダンタリオンに今すぐ襲いかかる恐れがなくなったので胸を撫で下ろし、これまでのことを説明した。
「紫乃のお袋さんの魔具だった……? それが今度は紫乃の魔具になりたいって?」
紫乃から説明を受けてもまだ怪訝な表情を崩さないダンテに頷いたのは、紫乃ではなくダンタリオンだった。
「はい。手荒な方法でお嬢様をお連れして申し訳ございませんでした」
「なるほどねぇ……」
また、悪魔に狙われた紫乃を守ってくれたことの礼を述べれば、ダンテは当然だと頷いた。
「紫乃は大切な婚約者だからな」
「そうでしたか……お嬢様、素敵なお相手と巡り合えたのですね」
ダンタリオンが穏やかに微笑むと、紫乃は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
それからダンタリオンは、魔具となった自分について紫乃に説明をした。彼の話によると、普段は装身具の状態だが、使用したい武器を思い浮かべれば、瞬時に変じることが可能であること。しかし、姿を変えることが出来るのは近接武器のみで、銃などの遠距離武器にはなれないという。
説明し終えると、ダンタリオンは目を閉じた。全身が輝いて光球の状態になって紫乃の手の中に収まると、それは次第に形を変えていった。
「……ブレスレット?」
銀製のブレスレットが現れた。『∞』の形状で、その中心に青い宝石が埋め込まれている。
「これが、魔具……?」
「使ってみたらどうだ?」
目の前で姿を変えたのだから魔具には違いないのだろうが、どうもまだ信じられない気持ちがあった。ダンテの提案にやや困惑しつつも頷くと、どの武器にしようかとしばらく思案する。
武器といえばすぐに思い出すのは刀剣類である。剣道をやっていたことのある紫乃の頭の中に思い浮かんだのは刀だった。するとブレスレットが輝き、みるみるうちに細長くなっていく。
「……わ、凄い……」
実際の刀は女性にとっては重量のあるものだが、ダンタリオンの変化したその刀はそこそこの重さは感じるが、ずっしりとは感じない。
そして、刀から再びブレスレットを思い浮かべれば、魔具となったダンタリオンは銀製の装身具へと戻った。
ダンテは、ブレスレットを手首に装着する紫乃の腰に手を添えて抱き寄せる。
「ま、紫乃が無事で良かった」
「心配かけてごめんね、ダンテ」
「ん、気にすんな」
戻るぞと紫乃の手を引いて歩き出したダンテだが、すぐに立ち止る。
「あ……由摩に電話かけた方がいい。心配してたぞ」
かごバッグの中の携帯電話を取り出してみれば、由摩からの不在着信があった。紫乃は境内に向けて来た道を戻りながら、由摩へ電話をかけて無事ダンテと合流したことを告げた。
* * *
森の中から出てきた二人は射的屋に足を運んでいた。店主にも無事ダンテと合流出来たと報告するためだ。
ダンテの話によれば、戻ってこない紫乃を気にかけた店主がわざわざ本部まで迷子の確認に行ってくれたという。心配をかけたのだから無事であることを知らせないと、と言った紫乃はやはり律義な性格だとダンテは思った。
『おお、兄ちゃんと会えたんだな』
『はい。ご迷惑をかけてすみませんでした』
『いや、そんなことねぇさ。兄ちゃんと仲良くやりな』
そう言って、店主は笑顔で二人を見送ってくれた。
その後、再びクレープ屋にも足を運んだ。ストロベリーサンデーとはまた違った味を気に入ったダンテが、もう一度クレープを食べたいと言い出したからだ。
クレープを購入したあと、祭りもそろそろ終わりを迎えているため、二人は紫乃の家へ帰ることにした。
「夏祭り楽しめた?」
虫の音が涼やかに響く暗い夜道を、ダンテと紫乃は並んで歩いている。
「ああ。出店がいろいろあって面白かった。特にクレープが美味い」
「あはは。あ、ダンテ、クリーム付いてるよ」
美味しそうにクレープを頬張るダンテの口元にホイップクリームが付いていることに気付くと、紫乃は手を伸ばして指先でクリームを掬い取り、ぺろりと舐める。まるで幼子の世話を焼く母親の気持ちになったようだと、紫乃は内心くすりと笑った。
そんな彼女の行動をじっと見つめていたダンテが、にやりと笑った。
「誘ってるのか、darling?」
「……へ?」
「OK、家に帰っていっぱい楽しもうぜ」
紫乃は意識してやったのではないのだろうが、ダンテにとっては意識しようとしてなかろうと、どちらでも良かった。
「あ、変なこと考えてるでしょ!」
「いや全然。さ、早く行こうぜ」
ダンテは訝しむ紫乃の背中を押し、家路を急ぐのだった。
2013/08/14
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