第25話 マグカップがくれた幸せな時間
紫乃は左手の薬指の指輪をじっくり眺めていた。数日前にダンテより贈られたそれは、いつ見ても眩く輝いている。
「……ふふ」
プロポーズされた時のことを思い出すと、恥ずかしいながらも幸せな気持ちに満たされる。
あのあと由摩にプロポーズされたことをメールで伝えると、返事はメールではなく通話で返ってきた。親友からの突然の報告に驚いて興奮していたが、落ち着きを取り戻すと自分のことのように喜び、祝福してくれた。
紫乃はマグカップに注いだアイスココアを飲み干す。喉を通る冷たさと口の中の甘さに心地良さを感じつつ、椅子から立ち上がってマグカップを持ち、流し台へ身体を向けて足を踏み出そうとした。
──ガツンッ! ガシャァン!
「いっ……!!」
ダイニングテーブルの脚に思いきりつま先をぶつけてしまい、はずみでマグカップが手からこぼれ落ちてしまった。
床にうずくまって痛みを堪えつつ、その痛みを少しでもやわらげようとつま先を何度もさする。どうやら小指を中心にぶつけてしまったようで、しばらくの間立ち上がるのも辛いほどの痛みに襲われた。
痛みを堪えながら、紫乃はマグカップを見やる。大小様々な大きさの破片と化した陶器は、以前より事務所にあった白いマグカップだ。元々食器の多くない事務所なので、食器ひとつ欠けると不便なものだ。今すぐ困るわけではないが、買い直すのなら早い方がいいだろう。
それに、いつか食器を買い足そうと考えていたのだ。今日お店に買いに行こう。
そう思いながら割れた破片に手を伸ばして片付けていると、ダンテがキッチンにやって来た。
「何か割れた音が聞こえたんだが……」
時刻はまだ正午にもなっておらず、ダンテの起床時間には早すぎる。充分に眠れていないせいか、目はまだ眠たげで、あくびもしている。それでも起きて階下に来たのは、マグカップの割れた音で目が覚めたからだろう。
「マグカップ落としちゃって……起こしてごめんね」
紫乃のところへ歩み寄れば、近くの床に白い破片が散らばっていた。ああ、と納得したダンテはしゃがみ込み、破片を拾う。
「俺がやる。可愛い婚約者に怪我させられねぇからな。紫乃はホウキとチリトリを頼む」
「あ、うん、ありがとう」
紫乃のためならどんな労力だって厭わないというダンテの優しさがありがたい。
やや気恥ずかしそうに返事をして言われた道具を持ってくれば、破片の掃除はすぐに終わった。
「ごはん、今すぐ作るからちょっと待ってて。そのあと、マグカップも含めて食器を買いに行ってくるわ」
紫乃はダンテの食事を作るため、冷蔵庫を開けて食材をいくつか取り出す。
そんな彼女を眺めていたダンテだが、少し考えてやんわりと断った。
「いや……待った。今から出かけよう」
「え?」
「デートしようぜ」
* * *
外は快晴。
急遽デートをすることが決まると、ダンテと紫乃は着替えた。
ダンテは普段の赤いコート姿ではなく、黒い七分袖のテーラードジャケットを羽織り、インナーはワインレッドのVネックシャツ、ボトムはジーンズ。それに、いつもは顎に生えた無精髭が綺麗に剃られていた。見慣れたコート姿と髭ではないことに紫乃は新鮮さを覚えながらも、嫌味と感じさせずに着こなすダンテにドキリとした。
一方、紫乃はダンテの希望で以前トリッシュが買ってくれたレースのついた薄手のボレロと、薄紫色のミニワンピースへと着替えた。化粧もしているが派手ではなく、むしろ控えめなナチュラルメイクであった。唇には愛らしいピンク色の口紅
が塗られている。
ダンテは、思わずキスをしたくなる衝動を抑え、首元にアメジストのペンダントが輝いているのを見て嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり似合ってる」
「髭剃ったんだね。普段とは違うかっこよさがあっていいなぁ」
いくら怠け者のダンテであるが、デートをするからにはきちんとした格好で望みたい。
普段の黒いインナーシャツでもそうだが、襟元から覗く鎖骨がセクシーだと紫乃は思った。
「さ、行こうぜ」
紫乃と事務所を出たダンテは、玄関の大きな木製の扉に鍵をかけた。
「そういえばマハの奴は何処行ったんだ?」
「朝食が終わったら散歩に行っちゃった。もしかしたら何処かでお昼寝してるかも」
紫乃がくすりと笑うと、ダンテは小さくため息をつく。
「あいつ、ますます猫になってきてるな……」
自分では猫ではないと言いながらも、散歩をして昼寝をするなんて猫以外考えられない。
「私達が戻るまでマハ、事務所に入れないね。……ねえ、キッチンの勝手口に猫用のドアつけてもいい?」
「……仕方ねぇな、紫乃が言うなら……」
ダンテとしてはマハ『専用』のものを作るのはいささか不満ではあったが、他ならぬ紫乃のお願いなので首を縦に振る。
すると、紫乃がダンテの手をそっと握ってきた。
「ありがとう、ダンテ」
お礼を言って微笑む紫乃はとても可愛くて。
そんな彼女を見れば、今しがた生まれた不満なんてすぐに消え去ってしまった。ダンテは紫乃の手を握り返すと、街の大きなストリートへと向けて歩き出した。
* * *
まずは腹ごしらえだ。起きてからまだ食事を済ませていなかったダンテの腹の虫が鳴ったので二人はカフェ『スピカ』に入り、オープンテラス席に座った。
ここは若い夫婦が営んでおり、厨房には夫が、注文を取ったりメニュー運びは妻が担当しているようだ。壁は白を基調とし、木のテーブルや椅子はナチュラルテイストで落ち着いた雰囲気を醸し出している。
たくさんのメニューの中から選んだのは、ダンテはハムチーズ&チキンサンド、アイスカフェオレ、デザートでストロベリーサンデー。
紫乃はキャベツとベーコンのクリームソースパスタ、オレンジジュース、デザートにレモンケーキ。
「こんなカフェがあったんだな。ちゃんとサンデーもあるなんて感心だ」
「相変わらずサンデー好きだね」
前までは事務所でデリバリーピザ、紫乃が来てからは彼女の料理を食べていたので、ダンテには外食するということがなかった。一人でカフェに足を運ぶガラではないので好物があるなんて知るよしもなかったが、紫乃と一緒なら何処にだって行きたい。これからは彼女と一緒にこういった店に出向くのもいいかもしれない。
ダンテは紫乃と談笑しながら運ばれてきた食事を味わった。食後に運ばれてきたのはデザート。
「はい、お待たせ。ストロベリーサンデーとレモンケーキよ」
紫乃が目の前に置かれたレモンケーキに目を輝かせるが、そのケーキの隣にはひとつのカップケーキがあった。
「あなた、ダンテって言ったかしら?」
「そうだが?」
「私、リタって言うの。少し前にエンツォってイタリア人がうちに来て、あなたのこと話してたわ」
確か一週間くらい前だったかしら、と付け加える。
エンツォにダンテの外見について『銀髪で無精髭を生やした図体のでかい男』と聞いていた。銀髪なんて見たことのない髪色だし、今日は無精髭は剃られているがエンツォから聞いた特徴とも一致していたので、リタはダンテに話しかけたのだ。
「こちらが彼女の紫乃ね……あら、指輪が……」
リタが紫乃の手元に視線を落とせば、左手の薬指に小さく煌くものを見つけた。そんな彼女に、紫乃はやや恥ずかしそうにしながらもつい先日ダンテよりプロポーズされたのだと説明すれば、リタはにっこりと笑って祝福してくれた。
「まあ、おめでとう! エンツォが言った通り、可愛い子ね。カップケーキはオマケよ」
リタが人懐っこい笑みと一緒にウィンクを紫乃に向ける。
「エンツォの奴、何て言ってたんだ?」
「『ダンテっていう怠け者が、日本人の女の子をたらし込んだ』って」
「あの野郎……」
あながち間違いではないのだが、その言い方に引っかかりを覚えたダンテはため息をつき、今度会ったら何か仕返しをしてやろうと決意した。
「そうだ。ねえ紫乃、今度ジャパニーステイストのメニューを考案しようと思うんだけど、暇な時でいいからまた来てくれないかしら?」
「あ、はい、いいですよ」
紫乃が了承すると、離れた席に座った客が注文しようとリタを呼ぶ声が聞こえた。リタはそれに返事をすると「良い一日を!」とダンテと紫乃の席から離れていった。
「エンツォさん、元気にしてるかなぁ」
「あの男が簡単にくたばるわけないさ」
「あはは、仲いいんだね」
面白そうに笑うと、ダンテはマハの件よりも盛大に顔をしかめた。それが余計におかしくて、紫乃はもっと笑うのだった。
* * *
「ランチのお金くらい払えたのに」
食事後の会計で、紫乃が代金を支払おうとしたのをダンテが制し、自分の財布を開けた。
事務所で働き始めて一ヶ月が経過した頃、ダンテより給与として現金を手渡された。前もって聞いていた給与より幾分多い気がしたので尋ねてみれば、ダンテやトリッシュの気持ちが含まれた金額だという。
自分の手持ちのお金と、ダンテからの給与のおかげで幸いにも所持金には困らず、今もランチの代金を支払えるのに、と思った。
「いいんだよ、今日は俺に奢られておけ」
デートなんだから。
ダンテにそう言われて紫乃はやっと彼に従い、素直に頷いた。
食事を終えてカフェを出たあとは、目当ての食器を求めて何件か店を見て回った。シンプルな白い皿や、花柄ではあるがおとなしい絵柄の皿、少し豪華な模様の描かれた皿など。他にもカラフルな色の食器などもあったが、事務所の食器はほとんど白いものだし、あまり派手すぎるのも紫乃の好みではない。
結局、白い食器のセットと花柄の大皿などをいくつか購入した。
「紫乃、『ゲート』開けてくれるか」
店を出たあと、購入した食器の箱を抱えたダンテがそう言ってきた。商品が商品なだけに結構な重さがある。力のあるダンテだからこそ重いように感じないが、それなりに重量はあるから長時間持つのは辛いだろう。先程、店員に自宅配送はどうかと提案されたが、それも断った。
ということは、紫乃の能力を使い、『ゲート』を通じて事務所に荷物を置くということ。店から少し離れて他人から見えないように路地に入ると、紫乃は『ゲート』を作り出した。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
抱えた荷物を事務所に置くとダンテがすぐに戻ってきた。
「さ、デートの続きをしようか」
主目的の食器を買い終えたことで行き先がすぐに浮かばなかったが、いろいろ店を見て回りたいと紫乃が言ったので、ダンテは彼女に付き合うことにした。
この街のメインストリートには、様々な店が並んでいる。中でも紫乃の関心を惹いたのは雑貨屋だった。その名の通り、日常的に使うものから、ちょっとした小物など数多くの商品を取り揃えている。
店内をぐるりと見渡す紫乃の目にとまったのは、花をモチーフにした可愛らしいデザインの二段トレイ。それをじっと見ているとダンテに呼ばれた。
「これ買おうぜ」
ダンテがその手に取って差し出してきたのは、それぞれ赤と黄緑の四つ葉のクローバーが描かれた白いペアマグカップだった。
「お揃いかぁ、大事に使わなきゃ」
そう笑った紫乃が近くの棚をちらりと見れば、可愛らしいイチゴの絵柄が描かれた三個セットのキャニスターがあった。
「あ、ねえ、これも欲しい」
「何に使うものなんだ?」
「お砂糖やお塩なんかを入れる容器だよ」
「料理好きな紫乃らしいな」
「イチゴの絵だからダンテみたい」
他にも絵柄の種類はあるのにわざわざイチゴを選ぶあたり、彼女の頭の中には『イチゴ=ダンテ』という図式が出来上がっているようで、それが何だか嬉しかった。
「他に欲しいものはあるか?」
「うーん……良さそうなのはあるけど、たくさん買っちゃいそうだからやめとく」
紫乃は苦笑して、二段トレイの箱をダンテに手渡した。
「そうか。ま、次のデートん時にまた買えばいいさ。んじゃ買ってくるぜ」
* * *
雑貨屋を出たあともいろいろな店を巡った。
夕方に差し掛かろうとした頃、一件の店のショーウィンドウに目がとまり、紫乃が立ち止った。衣服やバッグなどが飾られている。一見何の変哲もない洋服店にも見えたが、よく見ると柄が和風で、生地も一風変わったものであった。
「ちょっと変わった服だな」
ダンテが紫乃の隣に立ってショーウィンドウを覗き込む。確かに生地は変わっているが、服のデザイン自体は特別なものではない。
ワンピースやジャケット、スカートなどが展示されている。中でも、白い生地に大きな赤い花が部分的に描かれている生地のワンピースは、他に展示されている服よりも際立っていた。
ダンテは不思議そうに服を見つめていたが、紫乃にはどのようなものかわかっていた。
「これ、着物の生地だ」
柄はもとより、生地が一般的な洋服で使われるものではない。服だけではなく、バッグも和柄で着物の生地が使われている。どうやら着物をリメイクして販売している店のようだ。
「そういえば、紫乃は着物着ないのか?」
「お正月は着物を着て、夏祭りは浴衣着たよ」
「ユカタ?」
聞き慣れない言葉にダンテが首を傾げたので、紫乃は彼を見上げて簡単に説明を始めた。
「浴衣は薄手の着物で、今は主に夏祭りで着るの。あ、夏祭りっていうのは、いっぱいお店が出て食べ歩きが出来るんだよ。ダンテも浴衣着てみるなら作るけど」
「……作れるのか?」
「うん。洋服作るのは苦手だけど、和服なら作れるの」
実家にも和服が何着もあり、扱いや着付けにも慣れている。
「あ、そういえば今月地元で夏祭りがあるって由摩に聞いたんだけど、ダンテも一緒に行こうよ」
それなら浴衣も着れるし、と紫乃が提案すれば、ダンテは楽しそうに頷いた。
「そうだな。紫乃の実家も見てみたいし」
「あはは、それなら部屋片付けないといけないなぁ」
そう笑いながら、紫乃は再び展示されているワンピースに視線を戻した。ホルターネックのワンピースは今の季節にぴったりで、スカート部分は着物の時の平坦な印象はなく、ふわりと軽い。
ワンピースをじっと見つめる紫乃をしばらく見ていたダンテが、彼女の隣を離れて店内へ入っていった。
「……ダンテ?」
一体どうしたのだろうと思い、紫乃も店内へ入っていけば、ダンテが店員に何やら話しかけている。店員が明るい笑顔でダンテに頷くと、ショーウィンドウの方へ向かい、展示されている白いワンピースをトルソーから脱がし始めた。
「どうしたの?」
「ま、試着してみろよ」
すぐに店員が戻ってきて試着室に案内されたので、紫乃はとりあえずワンピースを試着することにした。ホルターネックのため背中が大きく開いているが、サイズはちょうど良かった。
「ダンテ、試着したよ」
カーテンを開けてダンテに見せてみれば、彼はヒュウと口笛を吹いて満足そうな笑みを浮かべる。
「いいねぇ。──なあ、これくれよ」
「かしこまりました」
「え……待って、私は別に……」
「さっきすげぇ欲しそうな目してただろ」
「でも……」
自分のことをよく見てくれていることに嬉しさを感じるが、まさか購入に踏み切るなんて。
試着前に値札タグを確認したのだが、着物の生地を使用しているため、ワンピースの価格は少々値が張っている。簡単にホイホイ買ってしまうような値段ではないのだ。
「このワンピースを紫乃に着てもらいたいんだよ」
俺からのプレゼントだ。
ダンテがウィンクをすれば、紫乃はそれ以上何も言わずただ「ありがとう」と告げると、元の服へ着替えた。
「とても素敵な婚約者ですね」
ワンピースを受け取ってレジで会計を進める店員がダンテに話しかけてきた。
どうやら紫乃と同じく日本人のようで、紫乃の薬指の指輪に気付く。
「そうだろ? 料理が物凄く美味いんだ」
「ここって着物のリメイクショップなんですか?」
「ええ。日本で買い付けた古着だったものをうちでリメイクしているんです。リメイクしないで着物のまま売ってもいるんですが、結構人気なんですよ」
「へえ……確かにここら辺じゃ珍しいもんな」
やがて会計を済ませて店を出ると、紫乃はダンテに笑いかけた。
「素敵なお店見つけちゃったね」
「今度のデートの時はそのワンピース着てくれよ」
「うん!」
いつしか夕方となり、日は西の空に沈み始めていた。もう少しすれば夕食の時間帯となる。
「もうこんな時間……」
「晩メシはどうする? 店で食って帰るか?」
「んー、ダンテと一緒なら家でも外でも、どっちでもいいよ」
全く、この娘は嬉しいことを言ってくれる。
ダンテの考えとしては外食するつもりだったが、事務所に帰ってゆっくり食べることにした。
「帰って食うか。外でいちゃつきながら食うと紫乃は恥ずかしがるからな」
「う……」
「ま、俺としても落ち着いて紫乃といちゃつける」
「そ、それはそれで私が落ち着いて食べられないよ」
紫乃が苦笑すればダンテも笑い、手を握ると事務所に向けて歩き出す。
「なあ、紫乃。いつ結婚したい?」
「え? うーん、そうだなぁ……」
突然のことに紫乃は手を繋いでいない方の手を顎に当てて考え込んだ。婚約の次は結婚である。いつ結婚したいかということは漠然とではあるが希望があった。
「六月がいいな」
女の子なら誰もが夢見るであろうジューンブライド。六月に結婚した女性は生涯幸せになるというものだ。
「ジューンブライドか。わかった、そうしよう」
ただ、今年の六月はもう過ぎてしまったので来年になってしまうが。
それでも可愛い彼女のお願いならかなえてあげたい。ダンテは快く承諾すると、身をかがめて紫乃の唇に自分のそれを重ねる。
「ん……」
デートに行く時は化粧したばかりだったのでキスしたい衝動を抑えていたのだが、あとはもう帰るだけだ。それならば化粧し直す手間をかけさせることがない。
ダンテは口紅を舐め取るように何度も角度を変える。
「……っ、はぁ……」
ようやくダンテから解放された紫乃がすっかり上気した顔で彼を見上げれば、何とも満足そうな表情で自分の唇をぺろりと舐めた。
「やっぱり我慢は良くねぇな。我慢してた分、じっくりと味わいたくなる」
その後、事務所に帰るまで紫乃はダンテに何度も往来でキスをされ、そのたびに頬を赤く染めるのだった。
2013/08/06
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