第6話 朝食


 一夜明けた。
 紫乃はソファーから起き上がって窓を開ければ、初夏の爽やかな空気が部屋に流れ込んできた。両腕を上げて背伸びをしたあと、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んで吐き出す。
 さあ、今日も一日が始まる。
 時刻は午前7時くらいと思われる。ダンテの起床時間にはまだ早いが、どうせ起きたのだ。昨日出来なかったところの掃除を済ませることにしようと決めた紫乃は、ドアの下に小さなメモが置かれてあるのに気付き、拾い上げた。

 ◇◇◇──────────
 ドアノブに洗濯した服をかけてあるわ。
 それと、食材はキッチンの冷蔵庫に
 入れてあるから自由に使ってちょうだい。
 食事、楽しみにしてるわね。
           トリッシュ
 ──────────◇◇◇

 ドアと床のわずかな隙間から差し込まれたメモにはそう書かれていた。
 ドアを開けて顔を出せば、ドアノブには紙袋がかけられ、中には昨日紫乃が着ていた衣服が綺麗に折り畳まれていた。トリッシュが昨夜のうちに洗濯し、乾燥機で乾かしてくれたのだ。
 部屋に引っ込んで紙袋の中身を出してみれば、自分の衣服だけではなくエプロンも入っていた。肩と前掛け部分にフリルの付いた、何とも女性らしいデザインの白いエプロンであった。昨日の掃除の際、エプロンがなかったので買いに行ってくれたのだろう。衣服が汚れないようにというトリッシュの心遣いがありがたい。

 ネグリジェを脱いで洗濯された衣服に袖を通し、エプロンを身に着けた紫乃は寝室を出た。
 階段を下りて一階の大きな木製の事務机の前を通り過ぎてキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けると、卵、ベーコン、レタス、トマト、フルーツが入っていた。
 その中で、何故かイチゴの量がやけに多く、生クリームもある。キッチンのテーブルの上にはホットサンドに使用する食パンの他に、ホイップクリームの絞り袋が置かれている。何かのお菓子でも作るのだろうか。
 疑問が浮かんで首を傾げてしまうが、とりあえず今は先に掃除を終わらせてしまおう。そう思った紫乃はキッチンを出て洗面所で顔を洗うと、掃除道具を再び手に取った。

 * * *

 トリッシュの起床は午前11時をゆうに過ぎていた。それでもダンテより早い起床であることにほんのわずかな優越感を抱きつつ一階へ下りる。

「紫乃、おはよう」

「おはようございます、トリッシュさん」

 白いエプロンを着てくれて嬉しさを感じる反面、また掃除をしているのかと驚きを隠せない。

「またお掃除してるの?」

「昨日やりきれてなかったところがあったので」

「働き者ねぇ……どこかの誰かさんも見習って欲しいわね」

 紫乃に感心しつつ、今は睡眠を貪っている店主のことを思い浮かべる。トリッシュの呟きに紫乃は誰のことだろうと疑問に感じつつも食事を勧めた。

「先にお食事済ませますか?」

「まだいいわ。紫乃はもう食べたの?」

「いえ、まだ……」

「まあ、食べてないの?」

 一体何時に起きたのかと尋ねられた紫乃は、7時過ぎに起きたと答えた。掃除をしていたら空腹感を覚えたものの、始めてしまったので中断したくなかった。それに空腹のピークを過ぎるとそれほど気にならなくなったので、ずっと掃除を続けていたのだ。

「物事に集中していると最後まで終わらせたくなっちゃうんです」

 あはは、と紫乃は苦笑した。

「お腹空いたでしょ。私やダンテのことはいいから先に食べたらどう?」

「いえ、大丈夫です。せっかくですからお二人と一緒にいただきます」

 掃除を終えた紫乃は道具を元の場所に戻すと「あ、そうだ」と先程疑問に思っていたことをトリッシュに尋ねる。

「トリッシュさん、冷蔵庫にイチゴがたくさんあったんですけど、何かに使うんですか?」

「ああ、そのことなんだけど……あなた、デザートも作れる?」

「はい。お菓子作りも好きなので作れますよ」

 料理は全般的に得意で、もちろんデザートも作れる。するとトリッシュは良かった、と微笑む。

「じゃあ、私の分はいらないから、ストロベリーサンデーを作ってもらえるかしら?」

「ストロベリーサンデー……ですか」

「ダンテの好物なの」

 筋骨隆々な男性がストロベリーサンデーが好物だと知って驚いたものの、紫乃はすぐに頷いた。

「わかりました。腕によりをかけて作ります」

 * * *

 ダンテが起床したのは正午をかなり過ぎた頃。13時になろうかという時刻に彼の寝室のドアが開いた。大きなあくびをしながら一階に下りると、壁際のソファーにトリッシュが腰掛けているのが確認出来た。

「あら、早かったわね」

 いつも夕方頃に起きてくる彼にしては早起きだ。

「お前が早く起きろっつったんだろうが……トリッシュだけか? あのお嬢ちゃんは?」

「キッチンにいるわ。あなたの好物教えたら張り切っちゃって……可愛い子」

 うふふと楽しそうにトリッシュが笑った。
 ダンテがキッチンへ向かってみれば、紫乃はちょうど泡立て器で生クリームを混ぜているところだった。クリームの『ツノ』が早く立つように、大きめのボウルに入れた氷水で冷やしながら泡立てている。その作業に集中しているせいか、ダンテがキッチンの入り口にやって来たことに気付いていない。
 そんな紫乃を見たダンテは昨夜に続き、悪戯心が芽を出した。気配と足音を消してゆっくりと紫乃の背後に忍び寄る。真後ろに立ったはいいものの、どうやって驚かせようかまでは考えていなかった。
 驚かせる方法をいくつか考えた結果、一番面白い反応を見せてくれるものを選び抜くと、身をかがめて紫乃の耳元に顔を近付けて話しかけた。

「美味そうだな」

「きゃあっ!?」

 突然耳元で声がした上、囁かれて背筋がぞわりとして短く叫ぶ。慌てて後ろを振り返ってみれば、黒い七部袖のインナーシャツと赤いパンツ姿のラフな格好のダンテが立っていた。

「だっ……ダンテさん……おはようございます……」

 紫乃はびっくりして目を丸くする。

「おはよう。昨日はすまなかったな」

「あ、いえ……こちらこそコートを汚してすみません」

 昨夜のことをダンテが謝ると、紫乃は特に気にしてはいないようで首を横に振る。
 ダンテは悪戯が成功して満足そうな笑みを浮かべたあと、ボウルの中身を見下ろした。つい先程トリッシュが、ダンテの好物を紫乃に教えたと言っていた。
 生クリームを使う自分の好物といえば──

「もしかして、ストロベリーサンデーか?」

「はい。ダンテさんの好物だとトリッシュさんに伺ったので」

 ひゅう、とダンテは軽く口笛を吹いた。いつもより早起きをしたので身体がだるく、あまりベッドから出たくなかったのだが、これは良い一日のスタートだと思った。

「お食事、お召し上がりになりますか?」

「ああ。それとコーヒーも頼む。ミルクと砂糖たっぷりでな」

「わかりました」

 コーヒーはそこの棚に入っているから、とキッチンの棚を指差したあと、ダンテはあくびをしながらキッチンを出て行った。
 氷水で冷やされたおかげで手早く泡立った生クリームを泡立て器ですくってやれば、しっかりとした『ツノ』が立つ。ホイップクリームが完成したことを確認した紫乃は、クリームの温度が上がるのを防ぐため冷蔵庫にボウルを入れ、朝食の準備を始めた。

 * * *

 焼いた食パンに挟んだ、こんがりとしたベーコンの匂いが鼻をくすぐる。
 キッチンのすぐ横のダイニングテーブルに並んだ今日の朝食(もうすでに昼食時間帯をゆうに過ぎているのだが)は、ホットサンド、スクランブルエッグ、サラダ、フルーツ。飲み物はコーヒーだ。
 美味そうだなとダンテが呟いてホットサンドを頬張ってみれば、案の定美味しかった。紫乃は彼らの口に合うかという不安があったが、どうやら好評だったのでホッとする。

 ダンテが朝食を先に食べ終えたので紫乃は椅子から立ち上がり、ストロベリーサンデーを作るためキッチンに入る。隣に座っていたトリッシュは、カットされたフルーツを食べながらダンテに話しかける。

「料理の腕もなかなかいいわね」

「そうだな。食後のデザートも楽しみだ」

 好物が出てくるということでダンテは随分機嫌が良かった。こんなに美味しい食事が食べられるのなら、毎日早起きしてもいいかもしれない。

(……毎日早起き、か)

 紫乃はこの食事を終えたら事務所を出て行ってしまうのだ。今思いついたように、毎日食事を作るためだけにここを訪れるようなことはしない。もしかしたら、作りに来てもらうよう頼み込めば、彼女なら首を縦に振ってくれるかも──いや、そんなことよりも、これからも事務所にいてもらうようにすれば良いのではないか。
 ダンテがそのようなことを考えていると、紫乃がストロベリーサンデーをトレイに載せて運んできたので、一旦思考を中断させる。

「ダンテさん、どうぞ」

 スプーンも一緒に渡してやれば、ダンテは満面の笑みを浮かべてストロベリーサンデーを見据えた。
 上段にはホイップクリームに載せられたイチゴ、中段にはバニラアイス、下段にはコーンフレークが盛り付けられ、段と段の間にはサイコロ状にカットされたイチゴが挟まれていた。ストロベリーソースもかかっているので、さらなる白と赤の綺麗なコントラストが生まれ、美味しさを引き立てている。

「店以外でストロベリーサンデーが食えるなんてすげぇ」

 外出しないで好物が味わえるなんて、とダンテは本気で感動していた。
 スプーンでクリームをすくって口に入れると、柔らかな甘味が口の中に広がる。ストロベリーソースはほど良い酸味で、ホイップクリームとの相性は抜群だ。
 ダンテがストロベリーサンデーを味わっている間、紫乃は途中だった自分の朝食を食べ終えた。

「あら……紫乃、あなた自分のサンデーは作ってないの?」

 トリッシュとしては自分は食べないので、ダンテと紫乃の二人分を作ってくれればと思い、イチゴを多めに買ってきたのだが。

「ダンテさんの好物なら、私が食べるわけにはいきませんので」

 食後にフルーツを食べている紫乃がまるで、自分はこのフルーツだけで充分だからとでも言っているかのように見えた。何だか変な気を遣わせてしまったようだ。

「まあ……そんなこと気にすることないわよ。食材なら買ってくるし、荷物持ちが必要ならダンテを連れて行けばいいのよ」

「おいおいトリッシュ、相変わらず容赦ねぇなお前」

「何言ってるの。今朝も掃除してくれたんだから、それくらいお安い御用でしょ」

 畳みかけるように反論してきたトリッシュの言葉に、ダンテはわずかに眉をしかめた。

「……今朝も掃除?」

「そうよ。朝早く起きて、朝食も取らずにずっと掃除してくれてたのよ」

 トリッシュが言うと、ダンテの視線が紫乃に向けられる。無言のまま見つめられたので紫乃は思わず緊張した。
 もしかして、店主の許可なく掃除をしたことがまずかったのだろうか。入ってはいけないような場所には立ち入ってはいないが、それは自分の主観であって、ダンテにとっては入って欲しくない場所かもしれない。
 ああ、昨夜に引き続きダンテに迷惑をかけてしまった。そう思った紫乃は慌てて謝る。

「あ……勝手にお掃除してすみません。昨日お掃除出来なかった場所があったもので……。朝食を取らなかったのも、集中すると他のことに気が回らないからで……」

「いや、いいんだ」

 てっきり怒られると思って申し訳なさそうに縮こまる紫乃の台詞を遮ると、彼女はポカンとした表情でダンテを見返した。
 事務所内を掃除して、料理の腕も問題ない。頭の隅で考えていたことを、ダンテは紫乃に提示した。

「もし良かったら、うちの家政婦にならねぇか?」


2013/04/23
2023/08/28 一部修正

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