ガタン、と大きな音が響いて、慌てて俺はその音源の方向に視線を向けた。
「空?」
「…大丈夫です。ちょっと、躓いてしまっただけで」
そこには倒れたゴミ箱と、たぶんゴミ箱を直そうとしているのだろう、四つ這いになって手を彷徨わせる空がいた。やっとゴミ箱に触れた白く細い指がなんとかゴミ箱を立ち上がらせる。そういえば昨日、その周辺で封筒を開けてゴミ箱を本来の場所から動かしたんだっけ。どうして元の場所に戻さなかったんだと自分で自分に舌打ちをした。
空が視力を失ってから、俺と波江はまず部屋の中をひたすら歩かせた。もちろん最初は手を引きながらだ。どこに何があるのか、部屋の構造、階段の段数から距離感に至るまで、徹底的に身体に染み込ませる為に。
今まで暮らしていた空間だけあって、空がその感覚を身に付けるのにそう時間はかからなかったが、今のように“今までとは違う”障害物ができたとき、空はそれに対応できない。結果、ぶつかったり躓いたりしてしまう。
壁に手を添えて立ち上がる空に俺は駆け寄った。
「怪我してない?」
「はい」
「なら、いいんだけど。…そろそろご飯にしようか」
はい、と。
小さくか細い声で返すくせに空はいつも笑顔で。
手を引いてソファに座らせる。確か今日は冷製パスタだと波江が言っていた気がする。キッチンの冷蔵庫を開けると、2人分の皿が目に入ったのでそれを取り出した。ただ、空のは俺よりも随分小さい皿。
「空、今日は冷製パスタだ。ほら、ペンネだから食べやすいよ」
「ありがとうございます」
フォークと皿を手渡す。二人で「いただきます」と言ってから波江の冷製パスタを口に運んだ。さっぱりしていて食べやすい。けれど、空は少ない量でも食が進まないようだった。困ったように笑いながら、それでも「おいしい」とペンネを一つずつゆっくりゆっくり食べていく。
視力を失くして以来、空の身体はますます弱くなった。次第に体力も失われ、外出するなど考えられないほど。新羅が定期的に診察に来てくれるものの、診断の結果はいつも同じ。身体の弱体化が進んでいることと、為す術がないということだけだった。
空は死ぬ運命にある。栄養などは補給できても、病を直すような薬は一切効かない。
「(それでも、俺たちは受け入れたんだ)」
「臨也さん?」
「ん?どうしたの?」
「いえ…なんだか、考え事をしているようでしたので」
視力を失ったことによって、空は以前に増して敏感になった。俺としては、あまり嬉しくない変化だ。空には、俺の不安を全部見透かされてしまいそうだから。
一瞬だけきゅっと唇を噛み締めて、空の頭を撫でてあげる。首を傾げる彼女の髪を梳かすように指を滑らせれば、すぐに気持ちよさげに閉じられる瞼。こんな何気ない一連の行動が、時間を経れば経るほど愛しくなって。
「さ、頑張って。あともう少しだから。今日は全部食べられそうだよ」
「はい…!」
そんな、残された僅かな時間を俺は、少しでも。
「(長く、できたらなんて)」
運命を受け入れることは、ただ単に諦めることじゃない。ゴールテープが見えているということは、最後の最後まで精一杯足掻くことができるということだ。
俺たち人間はよっぽどのことがない限り死ぬほど必死になったりはしない。と、思う。確かに頑張ったり、一生懸命にはなるさ。それでも、『生に固執する』という点で、きっと俺たちは“当たり前”を営んでいる。それは、俺たちがいつ死ぬが分からないから。心臓が動いていて息をするのが当たり前だから。
「限られた時間だからこそ、か…。なんとも皮肉な話だよねぇ」
「……?」
「なんでもないよ。ただ、人間はやっぱり面白い生き物だなぁって思っただけ」
波江の冷製パスタを完食して、キッチンに皿を運ぶ。今回は空も残さず食べてくれた。その事実が、ただ『食事を完食した』という小さな当たり前が嬉しくて、俺は上機嫌でスポンジを手に取った。
すると空が俺の隣にすっと立った。その表情はなぜか嬉しそうだ。
「機嫌良さそうだね」
「臨也さんだって」
「うん。なんだか気分がいいよ」
「ふふ、きっと、私が上機嫌なのは臨也さんのおかげですよ」
「俺だって空のおかげさ。ご飯、完食しただろう?」
「あ…そうですね!」
ぽん、と手を合わせて笑う空はもう俺を見ることないけれど。それでも、やっぱり俺は幸せで、空も幸せで、こんな、小さな“当たり前”を重ねながら残りの日々を生きるのだろう。
だから、今は泣くべきじゃない。隣で笑う少女につられるように、俺も笑った。
生きてるって、当たり前?
大丈夫だよ。もう怖がったりしないよ。