最初は、力が戻って飛べるようになったら、また天界に戻ろうと思っていた。
でも、その心は次第に変わっていって…体にも異変が起き始めたのは、シズちゃんさんの自動販売機に当たってからだ。
今まで感じたことのなかった、"空腹"を感じるようになった。だから食欲も沸いた。
そして、"痛み"を感じるようになった。例えばテーブルの角に手をぶつけた時。ぶつけた手の甲がじんじんと痛むのだ。…やがて私の治癒能力も低下していった。前ならものの数秒で完治していた傷も、半日かかるようになった。
「でも、私はこのことに恐怖はしても、疑問は抱きませんでした」
そう。私にはわかっていた。全ては私の責任なのだ。
「私は、天使を…辞めたんです」
「辞める…?」
揺れた臨也さんの目を見ながら頷く。私が臨也さんの手に自分の手を重ねると、臨也さんの肩がびくりと跳ねた。
「冷たい…。…まさか、」
「はい。天使を辞めるということは、人間に戻るということ。人間に戻るということは、私は死んでいるわけですから──」
「そんな…」
「また、死んでいくということです」
伏せそうになった目を精一杯上げて臨也さんを見据える。臨也さんは珍しく目を見開いていた。
「これ、昨日書類の紙で切ったんですけど、治っていないでしょう。正直に言うと、最近は食欲もあまりありません。…これが、事実なんです」
苦笑すると、臨也さんは苦しそうな顔をして唇を噛みしめながら私の手を握った。
その温もりに安心して、ほぅ、と小さく息をつく。
「でも、私、後悔はしてません。天使として臨也さんと結ばれないより、人間として臨也さんと居たかった。だから、あの日…臨也さんから好きだと言われたあの日、私は救われました」
「だから、キスを受け入れたのか……」
こくりと頷く。臨也さんからの愛を貰ったあの日、本当に私は消えてもいいと思った。
けれど、やっぱり私はそんなに潔い人間ではなくて。
「欲張ってしまいました…。臨也さんや周りの方々が未来の話をするたびに、もっと一緒にいたいと…そう思っていたんです」
「それ、は、俺もだよ…」
ぎゅう、と臨也さんの手に力がこもる。温かいその体温を確かめるように、私も力をこめて握り返した。
「できるだけ今まで通りで…。臨也さんには、心配を掛けさせたくなかったですし。でも、波江さんにはバレてしまって」
波江さんと一緒にキッチンに立ったとき、包丁で指を切った私を波江さんは見ていた。そして見破られた。
私は正直に全て話した。波江さんは真剣に聞いてくれて。そして、臨也さんに話すべきだと言ってくれた。
「それでも、空は俺に隠してたんだ…?」
「すみません…。私がただ、臆病だったんです」
今まで通りの関係を。それもあったけど、それよりも、いずれ消えてしまう存在だと知られたら、臨也さんに見捨てられてしまう…そんな気がして。
そう続けた私に、臨也さんは顔をしかめた。
「そんなことするわけないだろ!寧ろ、俺からしたら限りある時間を…もっと、有意義に使いたいと…思う」
「ありがとうございます」
まだ混乱しているのか、途切れ途切れに言葉を紡ぐ臨也さんに私は微笑んだ。
すごく、嬉しい。
臨也さんに拒否されなくて、本当に良かった…。
でもやっぱり確かな言葉が欲しいと思う私は、欲張りなんだと思う。
「臨也さん」
「なんだい?」
「いつか消えてしまう、こんな私でも、一緒にいてくれますか?」
「当たり前だろ…!」
臨也さんはぎゅうっと私を抱きしめてくれた。
「一緒にいてよ…その時まで、ずっと、ずっと」
「…はい」
ああ、あったかいな。
臨也さんの体温に包まれながら、私はうっとりと目を閉じた。臨也さんの背中に手を回すと、更に強く抱きしめられる。
「ん…臨也さん、泣かないでください」
「泣いてないよ」
そう言った臨也さんの顔に、確かに涙は無かった。けど、なんとなく私にはわかる。
「泣いてますよ」
「だとしたら、それは空のせいだ」
「ぅ…すみません……」
「まったく、この俺を泣かせるなんて空くらいだよ?」
やれやれと言った感じで苦笑しながら、臨也さんは私の頬に口付けた。ちゅ、ちゅ、と額や瞼にもキスを落とされて擽ったさに身を捩れば、逃がさないと頬に手を添えられて、唇にキスを落とされる。
「っふ…、」
「…ねぇ、空」
「なんですか…?」
「もっと、君を愛したい」
それが何を意味するかなんて、最初は理解できなかったけど。するりと太ももを撫でられて、私はいつもの如くぼふんっと爆発した。
たぶん真っ赤になっているだろう私の額に、臨也さんはおでこをこつん、と当てる。
「……だめ?」
「は、ぁう…」
「や、嫌だったら止める」
ハッとしたように顔を離した臨也さんの袖を軽く握る。
「い、やじゃないです」
「え…」
「もっと、愛してください」
「っ!」
臨也さんは突然私を抱き上げると、早足で自室へと向かい、ベッドの上に私を下ろした。息つく暇もなくまた唇を塞がれる。
「…どうなっても知らないからね」
「は、はい…」
その紅い瞳と臨也さんの熱さにくらりとしながら、私は覚束ない仕草で臨也さんの背中に腕を回した。
二人なら、二人だから
淋しくない、悲しくない。