とぽとぽとお湯が流れる音だけが響く。
固まってしまった私を、彼はただ黙って見つめていた。その瞳は、どことなく暗い色を奥に潜めていて。
「……」
「……」
「……あのさ、」
まさかこんな重い話になるとは思っていなかった私は、たどたどしく言葉を紡ぐ。それでも、それなりの答えを持って発した声は、予想以上に芯を持ってくれた。
「それって、臨也はやっぱり私と静雄の関係を良く思ってないし、もちろん婚約を祝う気持ちなんてないってこと?」
「、……」
日々也は何か言おうとして、すぐに口を閉ざしてしまった。無言という名の肯定に、私は再び苦笑する。
浴槽の縁に置いていた腕を伸ばして、その黒髪をくしゃりと撫でれば、日々也は不思議そうな目で瞬きをした。
「……それじゃあ、仕方ないね。私、静雄に指輪返す」
「え?」
驚きに目を見開く日々也。蒸気で少し湿った髪を尚撫で続けながら、私は三度目の苦笑を漏らす。
「臨也の気持ちを無視することなんてできないよ。私が勝手に割り切ったと思い込んでいたことは、臨也にとってとても辛いものになってたんだから」
私と静雄に当て嵌めて考えてみると、胸が張り裂けそうになった。私は静雄のことが好きで諦めきれなくて、でも静雄は他の女の人と付き合ってて。他の人と付き合いながら、私とは普通に接している。
それって、とても辛いこと、だよね。
「自惚れてるわけじゃないけどさ、私、臨也にはすごく大切にされてるって自覚はあるんだよ。逆に言うと、私が自覚できるくらい、臨也は私を気にかけてくれてる」
「……」
「なら、私一人だけが好き勝手できるわけないじゃない。言ったでしょ、臨也も私にとって特別な存在だって」
私と臨也は、お互いにお互いを縛り合っている。それはきっと私が臨也を求めすぎたからで、臨也も私に応えてくれたからだと思う。
どちらか一方が本当の本当に鎖を断ち切らない限り、今みたいに、どちらかに自分の人生が引き摺りこまれてしまうのだ。
「私だけ幸せになって、臨也が悲しい思いをするのは、嫌だもん」
「ッ違う!」
突然の言葉に、くわんと空気が震えた。露天風呂で良かった。ここが密室だったら、もっと響いて部屋の誰かが起きてしまったかもしれない。
少しびっくりして撫でていた手が止まる。
「違う、んです。臨也さんはそんなこと望んでない」
「?」
「本当は、奏さんが静雄さんと結婚するのを祝いたいんです。それが奏さんの幸せなら、心からお祝いしたいと、受け入れたいと思っている。だって、だって、奏さんが幸せなら、臨也さんも幸せ…だから」
「……」
「でもいつまでも過去に縋っているから、素直になれなくて。今一番恐れているのは、奏さんが結婚することじゃなくて、結婚することで、自分から離れていくことなんです。もう俺は視界に入らないんじゃないか、奏の世界に…俺は要らないんじゃないか…って」
私はただただ黙ってその告白のような言葉の羅列を聞いていた。
「…だから、心からおめでとうって、言いたいのに、言えなくて……」
「っ、……」
ぼろりと涙が零れそうになるのを、必死に我慢した。
鼻の奥がツンとする。目頭が熱い。でも、我慢した。
私が泣いたら、きっとこの子は気を遣って今の告白を全部無かったことにしてしまう。
“日々也”は、“臨也の気持ち”を“代弁”しているだけなのだ。そこまでさせてしまったら、今この瞬間までの彼の頑張りを無かったことにしてしまうのと同じことだ。
だって、だってね。
「(いくら日々也でも、私にそこまで気を遣うわけないもの。それに、日々也の瞳は紅じゃなくて金だし…。バレてないって思ってるのかな。臨也にしては珍しい…)」
せっかく、日々也を演じてまで臨也自身の気持ちを伝えてくれたんだもん。
「…“日々也”、“臨也”に伝えてほしいことがあるの」
「…なんでしょう?」
「私が臨也を遠ざけるわけないでしょ。臨也から離れるわけないでしょ。何度も言わせないでよ、臨也は私のヒーローなの。私の愛した人なの。それはこれからもずっと一緒。私が静雄と結婚しようが、何も変わらない。そんなことも解らないの、ばか。ばかばかばか」
「奏……さん?」
「でも嬉しかったよ。私の幸せが臨也の幸せだって言ってくれて。なら私、もっともっと幸せになるから。だから、臨也ももっともっと幸せになって。そうしたら、私も幸せになる」
縛り合うだけじゃない、昔は、臨也とは喜びも嬉しさも幸せも、お互いに共有してたじゃないか。悲しみは半分、喜びは2倍なんて簡単なきれいごとを、ちゃんとこの身で経験してきたじゃないか。
「私の幸せだけで幸せになるんじゃなくて、臨也自身の幸せを見つけて」
それが、今の私が臨也に願うたった一つのこと。
歪みそうな顔で精一杯笑顔を作る。たぶん、ちゃんとは笑えてないだろうけど。
でも、伝えたいことは伝えられたかな。
胸の内は、すごく軽くなっていた。
「わかった?きちんと伝えるんだよ」
「は、はい」
コクコクと首を何度も振る彼が可愛らしくて、ぷっと吹き出した。ふと、あることを思い付く。
「ね、髪、洗ったげる」
「はい?」
「いーからいーから。ほら、上がってこっち座って」
洗い場の方へ向かいながら手招きをすると、彼は少し悩んで、そろりと湯船から上がってきた。浴槽と同じ檜の椅子に座らせて、シャワーとシャンプーを手に取る。
「かゆいところはないですかー」
「ん……」
昔の記憶を辿って、臨也に散々言われた箇所なんかを重点的にわしゃわしゃと洗う。懐かしいなぁ。
泡を流すと、私の軽くなった胸の中も水で洗い流したように清々しくなった。
「……ありがとね」
「え?」
「ありがとう。…ごめんね」
最後にハンドタオルで髪を吹く。濡れた黒髪は、更に艶やかさを増していた。
「私、幸せになるよ」
紅い瞳を鏡越しに見つめながら、私は苦笑でも作り笑いでもなく、本当に心からの笑顔を浮かべた。
(謝るのは、俺の方なのに)