記憶が戻った次の日、突然静雄が何か思い出したように立ち上がると、津軽を連れてリビングを出ていった。
普段はどちらかと言うとデリックと一緒にいたりするから、一体なんだろうと首を傾げていると、廊下から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「や、意味わかんないし!ちょっと待っ、」
「うっせぇな。お前も何か言いたいこととかあんだろ」
「津軽…!」
「大丈夫だから」
静雄と津軽に挟まれてリビングに入ってきたのは、私の記憶にしっかりとインプットされている、赤いファーコートを着崩した八面六臂。
半ば引き摺られるようにリビングに連れ出される彼を見て、少しだけ苦笑する。
「こんにちは。久しぶりだね」
「ぁ…うん」
やっぱり彼は恥ずかしがり屋なのか、袖で自分の顔を隠してしまう。その下でもごもごと口を動かした。
「記憶…戻って、良かった」
「ありがとう」
八面六臂も心配してくれてたんだってね。
そう続ければ、八面六臂は小さく小さく頷いた。
……可愛いなぁ。
「…今こいつのこと可愛いとか思っただろ」
「かわっ、」
「え?だめ?」
「奏ー、なにドタバタやってんの?」
ガチャリとドアを開けたのは、自分の部屋で仕事をしていた臨也。あれ、そういや臨也と八面六臂は初対面だよね。
ドアノブに手を乗せたまま動きを止めた臨也は、はっと我に帰るとにやりと口角を上げた。あ、悪い顔。
「へぇ、また増えるの?」
「違うよ。彼はほら、八面六臂」
「……、ああ!」
ぽん、と手を打って、臨也は右手を差し出した。
「俺とは初めましてだね。よろしく」
「……よろしく」
…ん?八面六臂、もしかしてあんまり臨也のこと好きじゃないのかな。袖から出された手は、すぐに引っ込められてしまった。
それは臨也も感じたらしい。「参ったなぁ」と何とも皮肉めいた笑みを浮かべる。
「ね、とりあえず聞きたいことがあるんだけどさ。…なんでシズちゃんと手なんか握ってるの?」
「原理はよくわからないけど、こうしていないと俺はこちらに留まれないから」
淡々と説明する八面六臂に、臨也はふぅんと頷いて、そして繋がれた手を見て若干顔をしかめた。
やっぱり、自分と同じ顔がこうして嫌いな人間と手を繋いでたりするのは嫌なのかな。特に八面六臂は臨也に似てるしね。
「で?君はこちらに何しに来たんだい?」
「別に、ただ…」
「手前にゃ関係ねぇだろ」
「あっれぇシズちゃんてば八面六臂を随分気に入ってるみたいじゃない」
なんだか面倒くさくなりそうだ。困ったように津軽を見ると、津軽も小さくため息をついて臨也の肩を掴んだ。
「臨也、ニャン公たちが公園に遊びに行ってるんだ。迎えに行かないか?」
「いないと思ったらそうだったんだ。まぁ、俺はお邪魔みたいだし、素直にお誘いに乗ってあげる」
じゃあまたね、と臨也は八面六臂にひらひらと手を振ったけど、八面六臂はじっと臨也と津軽がリビングを出ていくのを見ているだけだった。
三人になったリビングで、静雄が八面六臂を押し出すように私と向かい合わせる。
「こいつ、奏が記憶ない間めちゃくちゃ頑張ってた」
「……」
「自分の体もガタガタなのに、奏のこと心配して、ずっと考えて」
俯く八面六臂の顔がみるみる赤くなる。
自分の知らない所でそんなに想われていたのもなんだか気恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しくて。だから私は、みんなにするように八面六臂の頭に手を乗せた。
「本当にありがとう」
「っ!…いいんだ。俺は、奏が全て…だから」
そう言った八面六臂の表情は、何故か今にも泣きだしそうなものだった。ちょっと下がった眉が迷子の子犬のようで。…いや、犬に眉毛は無いんだけれども。
とにかく抱きしめたくなって、私は八面六臂の首の後ろに手を回すと、ぐいっと引き寄せた。少しかがんでいるような状態で、八面六臂の額が私の肩に当たる。
「ごめんね、心配かけて。でも、もう大丈夫だから。八面六臂のことも、ちゃんと思い出したから」
「奏……」
「だから、安心して」
そろそろと背中に手を回されたのがわかった。
しばらくその状態だったけれど、やがて八面六臂が顔を上げて一歩下がる。
「奏、俺、奏のことすごく…すごく大切に思ってる」
「うん。ありがとう」
「ごめんねシズちゃん、奏とあんなにくっついちゃって」
「別に」
静雄ってほんと八面六臂に優しいよね。自惚れているわけじゃないけれど、静雄って私が他の人とあんまりくっついてると引き離したり不機嫌になったりするのに。
イザにゃんたちが帰ってくるまでいればいいと言ったら、あの子たちは会いたい時に会えるからと笑って、八面六臂はそっと静雄の手を離した。
「また、会いにおいで」
「うん…!」
最後に嬉しそうにはにかんで、八面六臂は姿を消した。
「んー、やっぱ可愛いね」
「そうか?」
「あはは、静雄も可愛いよ」
「嬉しくねぇ」
「そろそろイザにゃんたち帰ってくるかなー」
日が差し込む窓を開けて、すう、と息を吸い込む。
その空気は、少しだけ春の匂いがした。