午後5時過ぎ。
夕日が沈むにはまだ少し早い時間、私は新羅のマンションに向かって歩いていた。
(思ったより早く着きそう)
今日は昼休み返上で仕事をしたお陰か、早く上がることができた。同僚や先輩に「彼氏とデート?」なんてからかわれたけど。
彼氏というよりむしろ子供ですなんて言った暁には、色々と誤解された噂が社内に流れるに違いない。
(あ、この服可愛い)
ショーウィンドウに飾られた子供服の一式を見てそう思った。
イザにゃんは臨也のマンションに行く時に買った服しか持ってないからなぁ。
よし、帰りは一緒に服を買って帰ろう。
そんな思いで足を進める。新羅のマンションはもう目の前だった。
「おかえり。イザにゃん、いい子で待ってたよ」
朝と同じ部屋の前で朝と同じ顔がにこりと笑った。
だけどイザにゃんがいない。
上がって、と言われてリビングへ入ると、ソファの上で眠るイザにゃんがいた。
「お昼寝が遅くてね。帰ってくるまで寝ないって言ってたんだけど、やっぱり眠気には勝てなかったみたいだねぇ。そろそろ起きると思うよ」
寝る子は育つよ、と付け足して新羅はコーヒーを出してくれた。
意地を張って、うとうとしながら寝まいとしているイザにゃんを想像する。……にやけが止まらない。
「随分懐いてるみたいだね」
「私もこんなに懐かれてるとは思わなかった。一緒に暮らしてまだ3日目だしね」
そう言いながらイザにゃんの頭を撫でると、ぴくりと耳が跳ねる。うっすらと目を開けたイザにゃんは寝呆けたまま起き上がった。
あちゃ、起こした。
「……かなで?」
「ただいま、イザにゃん」
こしこしと目をこする。
意識が覚醒してきたのか、イザにゃんは私を確認するや否や私に抱きついてきた。
「かなで!おかえり!」
「うん、ただいま」
ぎゅーっと力一杯抱きつかれた。耳はぴこぴこ動いている。どうやら嬉しい時はこうなるらしい。
それにしてもぎゅうが長い。
「イザにゃん?」
「なあに?」
「ぎゅーって、好きなの?」
「しんらがね、だいすきなひとには、いっぱいぎゅーてしてあげるんだよって、おしえてくれたの!」
新羅、グッジョブ。
そんな意を込めた視線を送ると、新羅はどういたしましてという風に笑い返した。
「今日は本当にありがとう。セルティにも宜しくね」
「どういたしまして。あ、なんなら明日も来るかい?」
「え、いいの?」
「実は今週いっぱい休みなんだ。逆にセルティはスケジュールがぎっしりでね。一人だと暇だし、イザにゃんいい子だからいくらでも預かるよ」
明日からはどうしよう、などと考えていた私にとってそれはとても有難い提案で、申し訳ないと思いながら新羅の言葉に甘えることにした。
「じゃあ、また明日ね、イザにゃん」
「ばいばい、しんら!」
1日過ごして2人はだいぶ打ち解けたようで、イザにゃんは帰り際に新羅にもぎゅうっと抱きついてマンションを出た。
「イザにゃん、お買い物して帰ろっか」
「おかいもの?」
「うん。イザにゃんのお洋服買いにいこう。あと晩ご飯も。イザにゃん何食べたい?」
私の問い掛けにむーと少し考えてから、イザにゃんは元気よくはんばーぐ!と答えた。
「あ、静雄だ」
鳴らされたインターホンにモニターを覗くと、段ボールを持っている静雄だった。
「イザにゃん、静雄帰ってきたから、鍵開けてあげてー」
私はキッチンへ向かう。さっき作り置きしておいたハンバーグのタネを出して、フライパンを温める。
廊下から「しずお、おかえり!」というイザにゃんの声が聞こえてからしばらくして、静雄が段ボールとイザにゃんを担いでリビングに入って来た。
「おかえり。晩ご飯、ちょっと待ってね」
「おう……た、ただいま」
少し照れ臭そうに顔を背けて静雄が言う。こういうとこ、静雄は純情で可愛い。
「これ、俺の着替えとかなんだけど、どこに置けばいい?」
「んー、2階の部屋なら私の部屋以外どこでもいいよ」
わかった、と返事をしてイザにゃんだけを下ろして静雄は階段を上がっていった。イザにゃんはたたた、とその後を付いていったが、やがて2階からガタンという音と、イザにゃんの泣き声が聞こえてきた。
「どうしたの?」
「あー……」
イザにゃんを抱いて降りてきた静雄に尋ねると、静雄はがしがしと頭をかいて決まり悪そうに言った。
「段ボール置こうとしたんだけどよ、こいつが付いて来てるの知らなくて、こいつ小さいから見えなくて……」
「段ボールぶつけたのか」
「まぁ、そんなとこだ」
そんなとこというかそうだろうが。
泣きじゃくるイザにゃんの額を見ると、確かに少し赤くなっていた。そんなに大した傷でもない。
「よしよし、痛かったねー」
「うっうぇ……」
額を撫でてあげると、痛みが引いてきたのか涙は止まった。
座ってて、と静雄と言いできたハンバーグをお皿に盛ってテーブルに運ぶ。
「よし!じゃあ、静雄がご飯食べてる内に一緒にお風呂「俺が入れる」
……………。
……いいじゃないですか!イザにゃんくらい純情な子は何もしないよ静雄!
それでも駄目だとイザにゃんをまた取り上げられた。
……悔しくないもん。
「しずおのはんばーぐおっきい」
「食うか?」
「いいの?」
「さっきの詫びだ」
膝にちょこんと座っているイザにゃんに一口サイズに割ったハンバーグを食べさせる静雄。
もう可愛すぎるこの2人。なに、親子かお前ら親子なのか。
「おいしい!」
「ああ、うまいな」
むぐむぐと2人で頬張る姿は本当に親子のようで、私はなんだか懐かしいような気持ちになって笑みがこぼれた。
結局お風呂は私が先に一人で入り、静雄とイザにゃんが入った。
寝間着に着替えた静雄がバスタオルにくるまれたイザにゃんを抱いて戻ってくる。
「おい、こいつの寝間着がねぇぞ」
「あぁ、考えたんだけどさ、静雄のTシャツ貸して」
「ほら、ぴったり」
段ボールから適当に半袖Tシャツを取ってイザにゃんに着せた。
ぶかぶかのTシャツは半袖だけどイザにゃんにとっては八分袖だ。それに裾が長くてワンピースのようになっている。
「これだと楽でしょ」
普通の服を買うとズボンに穴を開けなきゃいけなくなる。その点これなら尻尾が出せて楽だ。
下着なら見えないから穴開けても外に着ていけるし。
「これからうちに居る時は静雄のTシャツ借りようかな。いい?」
「構わねぇよ」
ありがと、とお礼を言う。
イザにゃんはやっぱり尻尾を出せるのが気持ちいいらしく、尻尾を小さくて揺らしている。その時、くぁっと小さな欠伸を漏らした。
「もう寝ようか。ねぇ、今日は一緒に寝てもいいよね?まさか駄目とか言う?私一人で寝るの寂しいなぁ!ってことで一緒に寝ようかイザにゃん」
一人でペラペラと喋り、静雄が何かを言う前にイザにゃんを連れてリビングを出ようとしたら、静雄に腕を捕まれた。
「じゃあ俺も一緒に寝る」
「……あんた最近このパターン多くなったよね」
ま、別にいいか。
「じゃあ今日はお父さんたちの部屋で寝よう」
両親は2人で寝ていたから、ダブルベッドがある。イザにゃんちっちゃいし、十分寝れるだろう。
「ただし、変なことしないでね。したら追い出す」
「おう」
何故か機嫌を良くした静雄はイザにゃんを連れてさっさと2階へ上がってしまった。
(奏はああ言ったが……我慢できるわけねぇよな)
隣ですやすやと眠る2人を見て思わずにやけてしまう。
このネコ野郎が見つかってから奏とはその、恋人らしいことはしていない訳で。
いやでも一緒に暮らせるようになったのは大きな一歩だよな……。
とりあえず、極端に言えば奏に触れていない。
(キスくらい、いいよな)
キスは別に変なことじゃねぇし、と勝手に判断し、奏の前髪をそっとよけて、額に触れるだけのキスをした。
1回じゃ足りない。何度も、何度も。
(やべぇ……止まんねぇ)
ちゅ、ちゅ、と額から瞼、頬へと下りていき、唇にも、触れるだけ。
時々奏の睫毛が揺れるが、それ位では止められないほど奏が愛しくて堪らない。
更に下に行き、白い首筋に吸い付こうとしたその時。
「……何やってんの」
「あ……」
じとっとした目で睨まれて言葉に詰まる。
いつの間にか上半身を起こして奏に覆い被さるように手を付いていたこの状況では、何を言っても弁解はできないだろう。
「変なことしないでねって、言ったよね?」
「……はい」
「出てけ」
「いや、奏これはっ」
「家から追い出すぞ」
「すいませんでした」
あんたは廊下で寝てなさい、と掛け布団と一緒に廊下に出された。
くっそーあのネコ野郎が居なかったら上半身起こさなくて済んだのに……!
試しにこっそりとドアを開けると、開けた瞬間にスリッパを顔面に投げられた。
(仕方ねぇな)
掛け布団を引き摺って、奏の部屋へ行く。
奏の匂いに溢れるその部屋で、俺は眠ることにした。
翌朝、顔面をフライパンで殴られるなんて予想できないまま。