「(バカだバカだと思っていたけど、ここまでバカだったとはね)」
朝。
奏と二人で朝食を取りながらそっとため息をついた。
久しぶりに使ったダイニングテーブル。床と椅子の足が擦れた音が、ひどく懐かしく感じた。
奏は起きてから終始浮かない表情をしている。それでも、話し掛ければ取り繕うように笑うのだけど。
原因はわかっている。
あの化け物が帰って来ないからだ。
「(ほんとバカ…)」
フォークをがじがじと噛みながら思考を巡らせた。
あの単細胞は覚えているのだろうか。かつて俺があいつに言った言葉を。
『奏のことを傷つけたら、シズちゃんが自己嫌悪に陥ってる間に奏を俺のものにする』
この言葉をそのまま言ったわけではないけれど、同じ意味のことを言ったはずだ。
……いいよね。だってシズちゃん奏のこと泣かせたもん。奏を傷つけて、その後傍にいないようじゃ、文句も言えないよね。
「……奏、」
「なぁに?あ、このフレンチトースト美味しいよ。とても懐かしい味がするから、もしかしてよく食べてた?」
そうだよ。奏はいつも、フレンチトーストを食べに俺の家まで来てた。その度に美味しいよって笑って。
その笑顔が、堪らなく愛しくて。
「あのさ…」
「うん?」
「俺、俺は、奏のこと─」
ずっと好きだったんだ。今でも君を愛してる─。
そう言いたかったのに、俺の口からその言葉が出ることはなかった。
見たくないものを見てしまったからだ。
ガチャリと鳴った無機質な音の出所に目を向ける。廊下とリビングを隔てるドアの前には、忌々しい金髪のバーテン服が立っていた。
「っ…静雄!」
「お前…記憶戻ったのか!?」
「ううん。でも、臨也が敬語は要らないって言ってくれたの。……だめ?」
「いや…」
シズちゃんの姿を見た時に奏が浮かべた表情は、俺がどんなに優しくしても見られなかったもので。
駆け寄った奏に首を振るシズちゃんの表情も、化け物に似合わない人間じみたもので。
「……昨日は悪かった。奏は、奏なのに。俺はお前を否定しちまって…」
「私も酷いこと言った…。遠回しでも、静雄や津軽たちを傷付けたと思う。だから、ごめんなさい」
「奏…!」
シズちゃんが奏を抱きしめる。全く、どこでそんな力加減覚えたんだか。
抱き合う二人を見ていたら、だんだん視界がぼやけてきた。はっとして自分の手で顔を覆う。おいおい、嘘だろ?俺ってこんなに乙女チックだったわけ?
「(…クソッ)」
「臨也」
気付くとシズちゃんが俺を見つめていた。やめろよ、そんな…申し訳なさそうな目で見るなよ。屈辱的なだけなんだよ…っ!
「悪かったな」
「ざけんなよ…俺にも悪いと思ってるなら、奏に謝ったらとっとと出てけ…!」
「それはできねぇ」
ああやだやだ、今日のシズちゃんはいやに冷静だ。
真っ直ぐこちらを見つめるシズちゃんは、本当に普通の人間だった。俺の言葉にもキレない、いつも公共物を壊す手は、奏の肩に添えられて。
「新羅が言ってた。記憶を取り戻すには、全員の協力が必要だって。そん中には手前も入ってるんだよ」
「……」
「あのね、静雄、臨也。なら、津軽たちもまた一緒に暮らせないかな?」
奏の提案に、俺もシズちゃんも目を見開いて奏を見た。
「でも…いいのか」
「そうだよ奏。無理しなくても……」
「大丈夫。きっとあの人たちはすごくいい人たちだと思う。それに、私謝りたいの。会って話したい」
一晩で、人はここまで変わるのだろうか。
いや、奏は何も変わってない。上塗りされたまっさらな記憶に、じわりじわりと奏の感覚が、本質が滲み出てきただけで。
じゃあ、じゃあ、やっぱり奏はシズちゃんが好きで、だけど、やっぱり俺は…。
「でも私会い方とか全然わかんないから…」
「それは、問題ねぇと思う」
「そ。全然問題なし!」
聞き覚えのある声が聞こえたかと思うと、リビングの中央に津軽とサイケ、にゃんこを抱いたデリックと日々也が現れた。デリックがそっとにゃんこを降ろす。たぶんずっと泣いていたんだろう、目が赤く腫れていた。
「かなで…」
「ごめんね。君を受け入れられなくて。まだ思い出せないけど…でも、もう否定したりしないから」
奏がしゃがんで視線を合わせると、にゃんこはまた涙を浮かべて、きゅっと奏の服の袖を握った。
「いざにゃん、だよ」
「え?」
「ぼくのなまえ。かなでが、つけてくれたんだよ」
「……イザにゃん」
「うん…っ」
ぎゅーっと奏に抱きついて、にゃんこは顔を奏の肩に埋めた。奏もにゃんこの背中に手を回しながら、津軽たちへと視線を向ける。
「あなたたちもごめんなさい。私の記憶を取り戻すためにも、あなたたちのお話、聞かせてほしいな」
「いや、俺たちは全然気にしてない」
「そうだよ!おれ、奏のためにいっぱいお話する!」
「ま、あんま頑張り過ぎないようにな」
「ええ。無理はいけませんから」
そうだ、これが本来の姿。
奏は昔からなんでも受け入れては、全てを愛してきた。その愛は誰にも独占されることはなくて。独占できたのは、かつての俺と…シズちゃん、で。
「臨也」
「つが、る……」
「辛くなったら呼べと言っただろう」
「……昨日までは、そんなに辛くなかった」
「今は?」
「……」
いつの間にか俺の隣に来ていた津軽が、ひょいと俺を担ぎ上げた。嫌だと足をばたつかせれば、ため息をついて手首を握られる。
「静雄、臨也の体調が悪いようだから部屋に連れていく」
「あ?あぁ…」
そのまま引き摺られるように俺の部屋まで連れてこられて、ベッドに座らされた。頭を撫でる大きな手のひらに、また視界がぼやける。
「最近、仕事のし過ぎでろくに寝てなかっただろう」
「……ん」
「そんな中で奏の記憶がなくなって、一晩で色んなことがありすぎた。疲れてるんだ、臨也は」
「…、っ!」
疲れてるから、あんな変な思考回路に陥るのだろうか。
疲れてるから、津軽の手のひらがいつも以上に温かいのだろうか。
疲れてるから──
涙が、出るのだろうか。