子猫との日常 | ナノ


──…怖かった。

突然怒りだした静雄さんもすごく怖かった、けど…。
それ以上に、記憶を失くす前の私が怖かった。

猫耳が生えた男の子、顔がそっくりな人たち、瞳がピンクだったり、青だったり、金色だったり、いきなりリビングから姿を消したり。
明らかに人間とは思えない人たちを受け入れ、一緒に暮らしていた前の私が堪らなく怖くて。


『お前は誰だよ!…お前なんか奏じゃねぇよ!』


静雄さんの言葉が頭の中で響く。
そんなの、私だって自分のことよくわからないのに。

でも、だって、普通に考えたら受け入れる方がおかしいじゃない。普通は初対面の人を家に住ませたりしないもの。静雄さんは私の恋人らしいからまだいいとして、優しくしてくれる臨也さんでさえただの幼馴染みでしょ?どうして一緒にいるんだろ…。

案内された自分の部屋でひとり、膝を抱く。


「(私だけ、取り残されてるみたい…)」


こつ、と額を膝にぶつけた時、コンコンと軽いノックが響いた。顔を上げて返事をする。静雄さんはさっき頭を冷やしてくると言って出掛けていったから、ノックをするのは一人しかいない。


「まだ寝てなかったの?」

「臨也さん…」


ドアの隙間からひょっこり顔を出したのは臨也さん。
「少し話してもいい?」と尋ねる彼に無言で頷けば、彼はベッドに背を預けていた私の隣にすとんと座った。


「どう?何か思い出したり引っ掛かったりするものはあるかな」

「すみません、この部屋もあまり……。でも、」

「でも?」


少し期待の孕んだ声色で臨也さんは聞き返す。私はまた膝に額をつけて、ぽそぽそと言葉を続けた。


「……私って、元々この家に一人で暮らしてたんですか」

「え?…まぁ、奏の両親が海外に移住してからはね」

「だからかな…こうして部屋に一人でいて、みんなに置いていかれたような…そう、寂しいっていう気持ちが、すごく懐かしい。そして、何だかものすごく物足りない気持ちになる」


以前の私も、この大きな家に一人ぽつんと存在していて、寂しいと感じていたのだろうか。こうして膝を抱いて泣きたくなったりしていたのだろうか。

隣で臨也さんが小さく息をつくのが聞こえ、直後にぽすりと私の頭に何かが乗った。


「…覚えているのが、楽しいことばかりならいいのにね」


優しく頭を撫でられる。…あったかい。なんだか、懐かしい気持ちになった。


「私、よくあなたに頭を撫でてもらってた?」

「……うん」


少し意外そうな顔をして臨也さんは頷いた。やっぱりそうか。私、ものや風景を見て思い出すより、何かを実感して思い出す方なのかな。

なら寂しさと一緒に感じるこの気持ちは、何なんだろう。


「あと……静雄さんに、お前なんか奏じゃないって言われた時から、ずっと胸の奥が痛いんです」


撫でていた臨也さんの手が止まる。逆に私の目からは涙が溢れてきた。なんで、どうして。理由なんてわからない。


「…あのバカが言ったことなんか気にしなくていい」

「ダメなんです…あの人に拒絶されると、すごく苦しくて、辛い…」


自分の二の腕に爪を立てるようにして体を縮こませる。ふるふると震える肩を、臨也さんの手が包んだ。


「…やっぱり、奏は奏だよ。何も変わってない」

「え…」

「俺はね、別に記憶は戻らなくてもいいと思ってる」


臨也さんの言葉に顔を上げると、真正面に臨也さんの顔があった。その瞳はとても真剣で、とても優しくて。


「どんな奏でも、俺が今まで一緒に過ごしてきたのは君だ。俺は、君がどんな生き方をしようと構わないと思う」

「臨也さん……」

「それに、記憶が失くても本質的な部分は変わってない」


そう言って笑う臨也さんを見て、不思議な安堵感を覚えた。この笑顔は、知ってる。なんだかこの笑顔にたくさん助けられた気がした。

ぽろりと零れた涙を掬って、両手で頬を包まれる。その薄い唇が額に触れた。


「疲れただろう?今日はもう寝なよ」

「、はい…」


最後にもう一度だけ私の頭を撫でて、臨也さんは立ち上がった。部屋を出る前に「そうだった」と振り向く。


「俺に対して敬語は要らないよ。というか、今まで一緒に暮らしてた人たちにも敬語は要らないから。津軽たちも」

「は…う、うん」

「そうそう。じゃ、おやすみ、奏」

「おやすみ、…臨也」


臨也は満足そうに笑ったあと部屋を出ていった。しばらくドアを見つめていたけど、少しは気が楽になったからか眠気が襲ってきて、素直に寝ることにした。


「(明日、静雄ともちゃんと話をしよう)」


そう思って、目を閉じた。

でも、朝になっても、静雄は帰って来なかった。





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