怪我自体は大したことなかったので、奏はすぐに退院することができた。
だが問題は怪我じゃない。
「本当に何も憶えてない、のか?」
「はい」
申し訳なさそうに横を歩くのは確かに奏なのに、なぜか全くの別人のように思えた。奏を挟むようにして歩く臨也もそう思っているのだろうか、いつもは終始動いている口が静かだ。
重い足取りで歩く俺たちが家に着いたのは、日がとっぷりと暮れてからだった。
「ここが、君の家だよ」
「大きい……」
自宅を見上げて、奏はほう、と感心のため息をついた。
白い息を吐き出す奏の手を取って、臨也が玄関のドアを開ける。
「かなで!」
「……え」
「奏、奏!ねぇ、本当におれたちのこと忘れちゃったの?」
「え…え?」
リビングから出てきたチビたちに奏は目を丸くする。そりゃそうか。一人は頭に耳を生やしてて、あとは全員俺か臨也の顔をしているのだから。
チビとサイケに抱きつかれて、奏は困ったように臨也を見た。…気に入らねぇ。
「にゃんこもサイケも、話はちゃんとするからリビングに戻るよ。ほら、奏が困ってるだろう?」
さっきまで無表情だったくせに、家に着いてから臨也はやけに優しく笑っている。半べそをかいているチビを抱き上げ、宥めるようにサイケの頭を撫でてから、「ほら」と奏の手を取った。
「シズ……」
「大丈夫だ」
デリックが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。…大丈夫。この言葉は最早、自分に言い聞かせるための言葉だった。俺自身は、全然大丈夫じゃないと。そう感じていた。
「じゃあ、電話で話したけどもう一度詳しく話すよ。奏は記憶喪失だ。覚えているのは、常識程度の知識。それ以外は俺たちのことも、実の両親のことも、自分のことさえ忘れている」
突き付けられる現実は、いつだって残酷だ。そんなことをぼんやりと考えながら、俺は臨也が症状に対して説明するのを聞いていた。
「はっきり言って、記憶が戻る保障はどこにもない。ふとしたことで思い出すかもしれないし、ずっと思い出さないかもしれない」
「……辛いな」
「そうだね津軽。それはとても辛いことだ」
「でもよ、今までの記憶が無くても、これからまた思い出作っていけばいいじゃん」
「僕もそう思います。僕も最初は記憶が無かったけど…今じゃ楽しい記憶でいっぱいです」
日々也が控えめに笑う。と同時に、奏が眉をひそめた。
「え…あの、それってこれからも一緒に暮らすってことですか?」
「当たり前だろ」
「あなたたちは、臨也さんや静雄さんの親戚か何かなんですか?」
「いや…親戚とかでは、ないが……」
奏の発言に、全員が戸惑ったように顔を見合わせる。
「じゃあどうして一緒に暮らしてるんですか…?」
「どうしてって、そりゃあ奏が俺たちを受け入れてくれたからだよ」
デリックからそれぞれの出会いから住むようになった経緯を聞くと、奏は信じられない、とでも言いたげな顔をした。だけど、もっと信じられない発言を、奏はした。
「じゃあ、以前の私は"赤の他人"を自分の家に住ませてたってこと…?しかも、明らかに人間じゃない小さな男の子まで…」
「「「…………」」」
「やだ、うそ…そんなの普通じゃない…!」
「ッお前!」
隣に座っていた奏の肩を掴む。怯えたように揺らした瞳は、しかし全く俺に躊躇や後悔をさせなかった。
だって、こいつ、こいつ、津軽たちのことを"赤の他人"だって…自分のこと普通じゃねぇって…!
「おい、記憶失くしたのはわかるけどよ、いくらお前でも前の奏を否定すんのは許さねぇ!俺は記憶失くす前の奏が好きだったんだ!お前は誰だよ!…お前なんか奏じゃねぇよ!」
言い終わった。その瞬間、頬に固い何かが当たる感触。随分久しぶりに、頭の中がぐらぐらと揺れた。
ああ殴られたんだ、と思った。だが俺は普通の人間に殴られても微動だにしないはずだ。ということは殴ったのは──。
「津軽……」
殴られた頬に手を当てて首を動かす。テーブル越しに青い羽織が伸びていた。右手で拳を作り、左手で臨也の腕を掴んでいる。臨也の手には、どこから出したのかナイフが握られていた。
「津軽が、おこった…」
サイケの言う通り、津軽が怒っていることは明らかだった。俺みてぇにがむしゃらにキレるわけじゃねぇ。だが見るだけでわかる。
津軽は、怒っている。
「静雄まで奏を否定してどうする…!」
押し殺したような声。津軽はそれだけ言うと、出した腕を引っ込めて立ち上がった。吊られるようにサイケとデリック、日々也も立ち上がる。
「奏」
「ひ、」
「奏がそう思ってしまうのは、仕方ないことだと思う。だから、俺たちはしばらく姿を消そう」
「津軽!?それどういう、」
「ごめんな臨也。正直、奏が俺らを受け入れていないこの状況でこっちに存在し続けるのは、結構キツイ」
デリックが珍しく余裕のない笑顔を作った。日々也が悲しそうな顔で臨也からチビを抱き上げようとする。
「っやだ!なんで!?どうしてかなでとはなれなきゃだめなの!?」
「仕方ありません。さぁ…」
「やぁ…っ!かなではうそいってるだけだもん!だってかなで、ぼくのことだいすきって、かぞくだよっていってくれたもん!」
「わかってます。わかってますから…!奏さんのために少しだけ我慢しましょう…ね?」
暴れるチビを日々也が抱きしめる。そうしてる内にチビはおとなしくなり、日々也の腕の中からはただ泣き声だけが聞こえてきた。
「……シズ。俺、シズのこと信じてるから。シズなら、きっと奏と一緒に乗り越えられるって」
デリックの言葉に俺は答えることができなかった。
お前が信じてくれても、俺はもう俺自身を信じられねぇんだよ…。
「じゃあ、俺たちは消える。臨也、もし話したいことがあったら名前を呼んでくれ。すぐ行くから。…静雄も」
さっきとは違う穏やかな声。
……津軽はやっぱ俺とは違う、な。俺と違って、すげぇ大人だ。
痛みが残る頬の中で、自分自身に歯ぎしりをしながら津軽たちが消えていくのをただ見ていた。