ピンポーン
広い部屋にインターホンの音が響いた。波江がモニターを確認すると、そこには一人の女性が立っている。
「誰?あなたのお客様?」
「今日アポを取ってる人は居ないけど……、っ!波江、テーブル片付けて!お茶の用意して!!」
モニターを覗き込んだ途端に臨也は声を大きくして言った。
波江は彼の慌てぶりに少し驚きながら指示されたことをてきぱきとこなしていく。
重要な組かなんかのお偉いさんなのかしら。
そんな波江の推測は、玄関から聞こえた臨也の声によって粉々に打ち砕かれた。
「姉さん!!久しぶり!」
は……?
波江は自身の耳を疑った。
彼には妹の他に姉が居るという事実は知っていた。それでもすぐに事実を受け入れられなかったのは、唐突過ぎる訪問と、何といっても臨也の声の変わりようだった。
跳ねるようなその声は、無邪気な幼稚園児そのものだ。
そんな声に対して、大人びた、しっかりとした声が聞こえる。
「ちょっと臨也痛い!そんな抱きつかなくても……!」
「えーいいじゃん久しぶりなんだしー」
臨也に抱きつかれたままリビングに入ってきた女性は、とても美しかった。
背は臨也よりは低いが高い方だろう。すらりと伸びる足に、波江よりは短い黒髪を1本に結わえて横に流している。
ああ、こいつの家系は取り敢えず顔が良いのね。
波江がそんなことを考えていると、こちらに気付いた彼女が困ったように笑って頭を下げた。
「初めまして。臨也の姉の、折原名前と申します」
「初めまして。矢霧波江です」
シュンシュンと湯気を立てるやかんの火を止めて、紅茶の葉を出しながら波江はどうぞお掛けください、とソファを勧めた。
紅茶を煎れ、テーブルに運ぶ。折原姉弟の反対側に座った波江は姉にべったりと貼りつく臨也に目を細めた。
いつもの臨也を気紛れで我が儘な黒猫だとすると、今は飼い主が大好きな犬といった感じで、千切れんばかりに振る尻尾が見えるほどだ。
(なんというか……)
可愛いを通り越して、気持ち悪い。そんな感じがした。
それは貼りついているという行為ではなく、臨也自身のことだ。
普段の彼を見ているとどうしてもギャップを感じてしまう。あれ程人間が好きだと主張していながら人間を駒のように扱う、あの臨也がこんな一面を持っているなんて。
(やっぱり気持ち悪いわ)
「あの、どうかされました?」
「いえ……」
ずっと見られていることに気付いたのか、名前が問い掛ける。
波江が軽く首を振って答えると、臨也がそういえば、と名前を見た。
「今回はどのくらいこっちに居られるの?」
「4、5日かな」
「たったそれだけ?」
「たったって……会社に勤めてる人間にとっては十分だと思うよ?」
まとまった休みなんて中々取れないんだしさ、と名前は紅茶を啜る。
そしてカップ越しに波江と目が合うと、また困ったように笑った。
「すみません。いきなり来てしまって。お仕事の邪魔ですよね」
「姉さんなら邪魔じゃないよ」
「今は波江さんと話してるの」
むー、と頬を膨らませる臨也をなるべく見ないようにしながら、波江は薄く笑って自分も紅茶を飲んだ。
「お邪魔だなんてとんでもない。どうせ今全ての仕事を終わらせたとしても、それが報われないくらい明日にはまた大量の仕事がありますから」
「この子、人遣い荒いでしょう。本当にご迷惑をお掛けして……嫌だったらすぐに辞めて下さいね」
「ちょっと姉さん、勝手に波江を取らないでよ」
「取りません。本当に臨也は……。ちゃんと仕事に見合ったお給料をあげてるの?」
「その点はご心配無く。十分すぎるほど貰ってます」
波江は言葉も飾らず淡々と述べる。というのも、この人になら本音を語っても大丈夫などという不思議な感覚に囚われていたからだ。
名前が夕方に来たので、夕食を一緒に食べたいという臨也の我が儘で、名前は臨也のマンションで夕食をとることになった。
作るのは私なんだけど……と内心溜め息をついて波江がキッチンへ向かうと、名前が手伝うと言ってこちらへやって来た。
「そんな、あちらで寛いでいて下さい」
「いえいえ、手伝いますよ。今夜はグラタンですか?」
材料をざっと見て名前は微笑む。結構料理は得意なんです、と近くにあった玉ねぎを手に取った。
そういえばベッタリとくっついていた臨也が居ない。
「ちょっとだけ出かけてくるそうです」
「そうですか。じゃあ、自由に動ける内に作ってしまいましょう」
波江の小さな刺にも名前はくすりと笑うと、そうですね、と包丁とまな板を用意した。
「臨也、髪乾かさないと風邪ひくよ?」
「んー……」
ソファに座っている名前の膝の上には臨也の頭が乗っている。
あれから帰ってきた臨也と夕食をとり、後片付けを手伝おうとした名前は、波江に本当にいいですから、と断られテレビを見ていた。
シャワーを浴びてくると言って出て行った臨也は上がってくるなりソファで波江と話していた名前の隣にどさりと座り、上半身だけ横に倒したのはつい5分ほど前である。
「ていうか私のスカートが濡れるんだけど」
「うん……」
「……仕方ない。波江さん、バスタオル取って頂けますか?ほら臨也、頭上げて」
名前は波江から受け取ったバスタオルを膝の上に敷き、再び臨也の頭を乗せる。そしてタオルの端で髪を撫でるように拭いてやった
余程眠いのか先ほどからなまじ返事しかしない臨也は、気持ちよさそうに目を閉じる。
「本当に、困った子ね」
そう言ってクスクスと笑いながら優しく撫で続けていると、いつの間にか規則正しい寝息が聞こえてきた。
波江は臨也が完全に眠ったことを確認してから、少し言いにくそうに名前に尋ねた。
「あの……大変失礼だと思いますが、どうしてあなたのようなお姉様が居ながらこの人はこんな性格に?」
そう。波江はずっと引っ掛かっていた。
折原家の子供はどこか異常性を持っている。それは臨也と双子の妹たちを知れば確かな事実だ。
ただ、名前にはその異常性が見られなかった。普通に会社に勤め、何か変な趣味がある訳でもなく、とにかくどこかぶっ飛んだ所がない。
名前は波江の質問に本当に困ったような苦笑を浮かべて答えた。
「……わかりません。でも妹たちが臨也を見て育ったように、何かしらの原因は私にあるのかもしれません」
「その原因は全く見られませんよ」
「ありがとう。だとしたら、この子が生まれ持った性質(たち)としか言いようがありませんね」
また優しく撫でながら、名前は懐かしむように言葉を続けた。
「と言っても、小さな頃から人間観察をしていた訳ではないんですよ。でも、そうですね。余り甘えない子供でした」
「父も母も共働きだったので私たちは所謂鍵っ子というやつで、両親が帰ってくるまで姉弟で留守番をしていたんです」
ある日、両親の帰りが共に遅くなった。自分も中学校の委員会で帰りが遅かった。妹たちは保育園に預けられていたけれど、臨也は小学生だったので一人で留守番をしていた。
「帰った時、臨也はリビングのソファの端っこで蹲ってて。私、思わず一人でお留守番できたね、偉いねってぎゅーってしたんです。でも抱き返してくれなくて。代わりに震えてたんです、この子」
んん、と臨也がもぞもぞと動いたが、名前は変わらず頭を撫で続けた。どうやら起きた訳ではないらしい。
「それで私気付いたんです。この子本当は一人で留守番するのが怖かったんじゃないかって。だから、怖かったね、でももう大丈夫、お姉ちゃんがいるから、お姉ちゃんがここにいるからねってまた抱き締めたんです。それでも抱き返してくれなくて。ご飯を準備しようと思って立ち上がったら、この子何したと思います?」
名前は面白そうに笑う。
波江は想像できないまま話の続きを促した。
「私のスカートの裾をぎゅっと握って離さなかったんです。立っても、歩いても。ずっと握って離さなかった」
そんな臨也の前に屈んで目線の高さを合わせると、臨也は黙って抱きついてきた。
何を言うわけでもなく、ただ、黙って、手に力を込めて。
「一つ、お願いがあります」
いきなり発せられた名前の言葉に、波江は何だろうと首を傾げる。そして私にできることなら、と頷いた。
「最初に辞めていいなんて言っておいてなんですけど……。できれば、この子の傍に居てあげてください」
「別に優しくしなくていいんです。ただ、今までと同じように同じ部屋で仕事をして、たまにご飯を作ってあげてください」
何をお願いされるかと思えば。
波江は半ば拍子抜けしながら、再び頷いた。
臨也の人格はともかくとして、給料はいい。辞めるとすればよっぽど危ない状況に陥った時だろう。
「こう見えて、実は寂しがり屋なんです。ただ素直になれないだけで。静雄君だって、散々言っているけど居なくなったらなったで寂しいんですよ」
(いえ、それは間違っていると思います名前さん)
波江は心の中でそっと呟く。
それにしても意外だ。子供っぽいところはあると思っていたが、寂しがり屋とは結び付かなかった。
波江が頷くのを見て安心したのか、名前はにこりと笑い、臨也の肩をトントンと叩いて声を掛ける。
「臨也、私もう帰るね」
「んぁ……?やだ、もっと一緒にいる……」
「そんなこと言っても」
「とまってけば、いいじゃん……」
たどたどしく言葉を紡ぎながら、臨也はぎゅうっと名前に抱きつく。
その姿に昔の面影を重ねて、名前は溜め息をつきながら笑って弟の頭を撫でた。
「あーあ、姉貴帰るの早すぎ」
「あなたがあそこまでフニャフニャになるとは思わなかったわよ。ああ気持ち悪かった」
「相変わらず冷たいねぇ」
くくっと喉の奥で笑い、パソコンに向かう臨也からは昨日の様子など微塵も想像できない。
と、波江は今の短い会話の中で小さな違和感に気付く。
「昨日名前さんの前では"姉さん"って呼んでたじゃない」
「?そうだっけ。姉貴は姉貴だよ」
「……あなた、私の前で意地張ってるの?それとも名前さんの前で猫被ってるの?」
( 甘えたくなる )
さあて、どっちだろうねぇ