「嫌い嫌いきらい臨也なんか大ッ嫌い!!!!」
「あなた……この子に何をしたのよ……」
「別に?ちょっとキスしただけさ」
自身の腰にがっしりとしがみついて涙目をしている少女を正直欝陶しいと思いながら、波江はこの状況を作り出した人物を睨んだ。
当の本人はいつもの笑顔で軽く答えたが、名前にとってはそんなに軽いものではなかったらしい。
「朝起きてきたと思ったらパジャマのまま無防備にソファで二度寝なんかするから」
「わ、私が悪いって言うの!?」
「人に罪をなすりつけるつもり?」
「それ私が言おうとした台詞…ッ」
「言ったもん勝ちだよ」
何よそれ。
波江は心の中で冷たくツッコミを入れながらキッチンへと向かう。当然、腰にしがみついている名前も引きずられるように付いてくる。
とりあえず、何とかしてこの子を引き離さなければ。邪魔だったらありゃしない。
「どうでもいいけど、着替えて来たら?」
「波江さん……もうちょっと優しくして貰えませんか」
「あら、朝からパジャマでしがみつかれてどう優しくするのよ」
その言葉を聞くと、名前はぱっと手を離したが、着替えるよりもお腹が空いたらしくパンへと手を伸ばした。
軽くなった体でコーヒーを煎れる。何も言わなくても3人分用意する辺りが、彼女の小さな優しさだった。
「で?なんでこんな面倒くさくなってるの?」
自分の為に用意された書類の山にため息をつきながら、波江は名前に尋ねた。
臨也も名前も朝食を摂っていなかったため、テーブルの上にはトーストとスクランブルエッグが乗っている。
名前は波江にぴっとりとくっついて反対側に座る臨也を睨んだ。
「だって、あり得ないじゃないですか。いきなり、突然、突拍子もなく!キスされたんですよ?」
「この前キスしてもいいかって聞いたら、名前断ったじゃん」
「だからって寝てる間にキスするとか最低!だいたい、嫌だから断ったのに!!」
そう言ってスクランブルエッグを一口食べる。どんなに怒っていても、人間の本能は忠実に働いているらしい。
波江はコーヒーを一口含むと、いつもの冷静さでこう言った。
「そんなことだったの。何よ、中学生じゃあるまいし」
波江の言葉に一瞬部屋が静寂に包まれた。
その後臨也はだよねぇ、と面白そうに笑いだし、名前は唯一の頼りに冷たく見放されたことに混乱しているのか、え?え?とクエスチョンマークを浮かべている。
「そんな思春期真っ盛りでもなし、まあ……キスしたのがこいつなら嫌がる気持ちも分かるけど」
「波江さんは……味方なんですか敵なんですか」
「私は誠二だけの味方よ」
波江はあっさりと言い放つと、大したことではないという風にさっさと仕事に取り掛かった。
取り残された2人はしばらく波江を見つめていたが、弟を引き合いに出されては何も勝てないことが分かっていたので、黙って朝食を再開した。
勿論、無言で。
と言っても、怒っているようにムスムスと食べているのは名前で、臨也はニヤニヤとそれを見ていただけなのだが。
トーストもスクランブルエッグも無くなり、皿を片付けようと立ち上がった名前に、臨也が意地悪そうに言った。
「そんなに嫌だった?」
「嫌よ……嫌に決まってる」
「そう?」
その声が聞こえたと思ったその瞬間、名前の目の前には臨也の顔があり、名前がそれを認識した瞬間には既に臨也の口によって自身の口を塞がれていた。
「んんんッ!!??」
思い切り突き放そうとするが、片腕を掴まれ後頭部を抑えられている為ろくな反抗ができない。
ただ闇雲にどんどんと臨也を叩いていると、どこかツボに当たったのかうっと呻いてやっと唇が離れた。
「強情だねぇ。もうちょっと先に行きたかったんだけど」
「ばっ……ばっかじゃないの!?信じらんない!!嫌い、大嫌い!!!」
「───……ッ」
ごしごしと唇を袖で擦り、今度ははっきりと涙を零しながら名前は部屋を出て行った。ガチャン、と少々金属混じりの音がしたのでマンションから出て行ったのだろう。
一方、臨也は名前の予想以上の拒否とフローリングに落ちた水滴に動けなくなっていた。そのやり取りを見ていたのかいないのか、波江が一言漏らす。
「やっぱり、人間はあなたのことが嫌いみたいね」
臨也は波江を軽く睨むが、波江は淡々と業務をこなしている。パソコンに映る画面を見ながら、やはり冷静に彼女は言い放った。
「特に彼女はね」
名前が出て行ってから1時間経ったが、一向に帰ってくる気配は無い。
パジャマ姿で飛び出した上に手ぶらで出て行った為、遅くても昼頃には戻ってくるだろうと踏んでいたが、昼食よりも先にとある情報が臨也の元に流れてきた。
『池袋でパジャマ姿の女の子が不良に絡まれている』
その文章に目を見張る。
その情報はダラーズの掲示板に書かれており、投稿日時は約1分前だった。
しかし投稿者はすぐその場を去ってしまったのだろう。もしくは目的地に向かう途中に車か何かからちらりと見えただけかもしれない。レスに浮き出た、何処で、どんなパジャマ姿なのか、という質問は完全にスルーされていた。
「波江、ちょっと出てくる」
「もう帰ってこなくていいわよ」
弟以外にはあくまで冷淡な波江が言い終わる前に、もう玄関の扉は閉められていた。
あそこまで取り乱すなんて珍しいこともあるものだ、と先ほどまで臨也が見ていた画面を覗き込む。相変わらずレスの質問には答える者は居ないようだ。
なるほどこれが原因かと思いデスクから身を引くとカツン、と何かが手に当たる。
それは、臨也の大事なコマ道具である、携帯だった。
「本当に珍しいわね。明日は雪かしら……?」
臨也は池袋に着いて掲示板をチェックしようとしたところで、自分の重大なミスに気付く。
無い。携帯が、無い。
「しくった……」
自分の大事な情報源である携帯が無いというのは、痛い損失だった。波江に連絡を取ろうにも、携帯が無いのでは無理だ。
仕方ないと歩道に設置された公衆電話へと向かうが、その公衆電話は飛んできた標識によって派手な音を立てて崩れ去ってしまった。
「いーざーやーくーん」
「…………最悪」
本当に、心の底からそう呟く。
そんな臨也の心境など知らず、標識を投げた人物、平和島静雄は青筋を立てていた。
「シズちゃん……俺、ちょっと用があるからさ、見逃してくんない?」
「てめぇの用なんざ知るか。見逃して欲しいんなら何回もひょこひょこ現れてんじゃねぇよ」
一歩、また一歩と近づく。
静雄は丁度立っていた標識を引っこ抜くと、先端を臨也に向けた。
「困ったねぇ……本当に」
臨也はポケットからナイフを取り出す。
ナイフはある癖にどうして携帯が無いんだ、などと自分に少し腹を立てながら向かってくる標識を避け電話ボックスのガラスの破片を2、3枚投げ付けた。
「あん?」
静雄の腕に突き刺さった1枚がどれだけ無力かは知っていたが、一瞬の隙を作れれば十分、臨也は人混みの中へ紛れ込みさっさとその場を後にした。
静雄の背後にサイモンが歩いてくるのを確認できなかったら、もっとややこしいことになってたなと一息ついて取り敢えず狭い路地へと入る。
「さて……と。シズちゃんに見付かったからあんまり大通りは歩けないな。波江がすぐに携帯を持ってきてくれるとは思えないし……」
不良の溜まりそうな場所をさり気なく確認しながら、するすると狭い路地を歩く。
目的地は、もう決まっていた。
「おや、珍しいね」
目の前に立つ黒縁眼鏡に白衣を着た男はぱちくりと目をしばたかせた。
臨也は挨拶は後だとばかりに手短に質問する。
「怪我したパジャマ姿の女の子の話とか聞いてない?」
「なんだい、藪から棒に。そんなの初耳だよ」
「運び屋は?」
「セルティなら仕事で居ないよ」
「わかった」
「ちょっと、なんでそんな不機嫌なのさ」
そう思うなら追求するなよ、と心の中で悪態をつきながら、別に、と素っ気なく答えた。
ああくそ、イライラする。
自分は、それなりに出来る人間だと思っていた。
それなのに、携帯が1台無いだけでこんなに情けない事態になるとは。
…………というよりも、1人の少女に、こんなに振り回されてるなんて。
そう思っても、臨也は名前を探すことを止めようとは思わなかった。
「居ない……」
出来る限り裏路地などを探したが、名前の姿はちらりとも見えない。
もしかしたらもう帰っているのではないかと思ったが、どこの馬の骨とも知れない奴らに名前が傷つけられ、その上弄ばれているのだとしたら気が気でなく、名前の姿を見るまでは安心して帰れなかった。
「くそ……っ!」
ぎりりと歯を食い縛るが、そんなことをした所で名前が現れる訳がない。
これは携帯を取りに戻った方が早かったかもしれないと静雄の姿が無いのを確認して路地から大通りへ出た。
途端に聞こえた、馬のいななき。辺りを見回すと、真っ黒なバイクがこちらに向かって走っている。
臨也は迷うことなく路肩へ飛び出すと、黒バイクは臨也の姿に気付きバイクを寄せてきた。
「やあセルティ」
<なんだ?仕事か?>
PDAに文字を打って会話をするその人物は都市伝説である首なしライダーことセルティ・ストゥルルソンに他ならない。
臨也は9割の諦めと1割の希望を持って尋ねた。
「あのさ、今日の午前、パジャマ姿の女の子を見なかった?」
<見たも何も、このバイクに乗せたぞ>
「えッ……」
予想外の返答に臨也は動揺する。まさかここで救世主に出会えるとは!
「何処へ運んだ?」
<ちょっと待て。あの子はお前の何なんだ?>
「そんなことはどうでもいいだろ」
<良くない。あの子がお前の所から逃げてきたと言うから手を貸したんだ>
何だか面倒臭い話になっている。
あいつめ、逃げたというより勝手に出て行った癖に……!
しかし居場所を知り何とかして会うほうが先だと考えた臨也は、セルティになるべく誤解を与えないように少しだけ説明をした。
「あの子は俺が拾ったんだよ。池袋で死にそうになっている所をね。帰る場所が無いって言うから俺の家に住ませてる。でも、あの子を利用するとかそういうのは一切考えてない。本当だ。……お願いだよセルティ」
セルティは無い首を傾げて少し考える。
こんな臨也は珍しい、というか初めて見る。
柄にもなく焦っていて、パジャマ姿の少女に会うために私に懇願している。
臨也があの子を利用しているかもしれない、という考えが少女の元へ連れていく事を躊躇させていたのだが、この様子から見るに、臨也は嘘を言っていない。
この思考も含めて臨也の計算かとも思ったが、一々そんなことを考えていたら臨也から来る仕事は成り立たないだろう。
ごちゃごちゃしてきた思考を振り切るようにセルティは僅かにヘルメットを振る。
そして臨也にPDAの画面を差し出した。
<いいだろう。その子の所へ連れて行ってやる。乗れ>
「ありがとう!!」
臨也は素直に喜んだようで、ぱあっと顔を輝かせた。
本当に珍しい、とセルティは内心感心する。
影で真っ黒なヘルメットを作ると、臨也に渡す。同時に、一言付け加えた画面を見せた。
<どこに行っても怒るなよ。場合によっては嫌な出会いがあるかもしれない>
「マジで……?」
嫌な予感がしながらも、背に腹は代えられないとバイクの後方に跨がる。
バイクは再びいななきを響かせて走りだした。