わたしが死んだらどうする?
そう言った君は、どうしようもないくらい儚い笑顔を俺に向けた。
( いない 、 いない )
「わたしが死んだらどうする?」
つい3日前のことだった。
清潔すぎるほど真っ白で無機質な部屋の中に君は居た。
俺はその純白に滲む黒い絵の具のようだったと自分でも思う。
「何を言い出すのかな、いきなり」
「そのままの意味。知りたくなったの」
にこりと笑う、女性と言うには少々あどけなく、少女と言うには大人っぽい君。
その笑顔は、優しい癖に俺を逃がしてはくれなかった。
「…………そうだねぇ」
諦めて溜め息をつく。
君には何故か嘘も誤魔化しも効かなかった。というよりも、できなかった。
黙って微笑んでいる、それだけなのに、つくづく人間ってやつは不思議なものだ。
俺はしばらく思案に耽り、それほどこだわりも無くさらりと言ってのけた。
「別にどうもしないさ。確かに俺の愛する人間が1人減るのは寂しいけれど。きっと君とは違う誰かをまた見つけるんだろうね」
「そう言うと思った」
くすりと、か細く笑う。
口に添えられた手は、何年も日に当たっていないかのように白く、滑らかな陶器を思わせた。
その手の後ろでまた口が動くのを、俺は何となく重たい気持ちで見つめた。
「臨也なら、わたしの後を追って死ぬなんてあり得ないもの」
「死んだ後に君と再会できる訳じゃないしねぇ。そんな不確定な世界に自ら命を落とすなんて信じられないよ」
「臨也は無神論者だものね」
「そうだよ。神なんていやしない。あの世へ行って君に会うなんて、傲慢にも程がある。"あの世"を語る奴は嫌いだ。死んだ後に自分がどうなるかなんて勝手に想像してさ、自分が神になった気でいるんだか知らないけど」
言葉が急速に込み上げてくる。まるで自分の言いたいことが言葉を下から押し上げているようで。
きっと俺はただ、この一言が言いたかったんだ。
「……だから、『わたしが死んだらどうする?』なんて聞く君は嫌いだ」
それは理屈と批判に上塗りされた小さな我が儘だった。
君が死んだら、なんて想像出来ない、したくもない。
だからこの話を終わらせる為に、言ったんだ。
「そう。ごめんね、変なこと言って……。でも、ありがとう。答えてくれて」
やめてくれ、もう笑わないでくれ。薬の副作用で辛く歪んだ顔で良いんだ。別にそんなの気にしない。俺の前で、隠すための笑顔をしないでくれ。
そんなことを切に思っていたのだけれど。それでも君はまた微笑んで話し出した。
「──…臨也が無神論者だったら、わたしが臨也の神様になってあげるよ。わたしが居なくなったら、臨也の周りに風を吹かせてあげる。暖かい陽射しを注いであげる。花びらをその髪の毛にくっつけてあげる」
最後はどこか面白そうにくすくすと笑いながら言った。
今さっきその話は嫌だと言ったのに、君は気付いているのかいないのか。
「もうすぐ面会時間は終わりですよ」
「わかりました。……じゃあね」
「ばいばい、臨也」
本当の別れの言葉になるなんて、信じたくなかったんだ。
君が死んだという情報が入ったのは次の日の昼だった。
急いであの無機質な部屋へ向かうと、生物を無くした部屋は本当の意味で無機質なものへと変わっていた。
白い壁に白いカーテン、真ん中には白いベッドに白いシーツに白い枕。
真っ白な空間は、そのまま君の居ない真っ黒な穴だった。
(こんなに、つまらない街だったっけ)
病院から出た帰り、ぶらぶらと池袋の街を歩きながらふと思った。
あれだけ愛しいと思っていた人間は、今や自分の行く手を阻むただの障害物へと成り果てていた。
(こんなもんだったのか)
君が居ない世界は世界じゃないんだ。君がいたから俺の世界があったんだ。
こんな世界に、自分が生きていく価値などない。
確実に君は俺の神へと成りかけていた。
いつか黄色い布を纏った少年に言った言葉を思い出し、自嘲する。
既に過去になった君は俺を置いていくのか、追い掛けているのか分からない。ただ、君が俺の中にまとわりついて離れなかった。
だから、自分のすぐ横に自販機が飛んできても驚かなかったし、いつものように嫌悪や焦りを感じることもなかった。
「いーざぁーやくんよぉ」
「シズちゃん」
片手に標識を持つ彼を見て、俺はこう思った。
(こいつなら、俺を殺してくれるかもしれない)
わざと挑発するような言葉を掛ければ、予想どおりにノッてくる。
次々と人間には持てない、投げられないものが飛んでくるが、不思議と俺に当たることはなかった。
「シズちゃん、本当に俺を殺す気あるわけ?ああ、それとも、俺を殺してまた警察にお世話になるのが恐いんだ?」
「………………」
俺を囲むように投げられたモノたちを見回しながら言った。
当たれば死ねそうなのに。
シズちゃんはしばらく黙って俺を見ていたけど、くるりと俺に背を向けた。
さすがにこれは想定外だ。
シズちゃんは煙草をくわえると煙と共に言葉を吐き出した。
「俺が殺してぇのは今のお前じゃねぇ。何を考えてるか知らねぇが、今のお前を殺してもすっきりしねぇ」
それだけ言うと、さっさと人混みの中へ姿を消した。
なんだよ、シズちゃんがすっきりするなんて知ったことか。こっちがすっきりするんだから別にいいじゃないか。
単細胞のくせに妙に鋭い勘を持つ彼を後ろから睨み付けたけれど、彼は振り返ることはなかった。
それからマンションに帰る気にもなれず、ただ街を彷徨った。
波江は俺が帰らないのを心配してるのだろうか?まさか。彼女が感情を向けるのは弟だけだ。
公園のベンチに腰掛けてぼーっとしていると、言いようの無い寂しさが込み上げた。
違う誰かをまた見つける?馬鹿馬鹿しい。自分の周りに人間は溢れるほど居るのに、自分の近くに人間は居ない。
あんな風に、微笑みを向ける人間は居ない。
そんな思いで地面を見つめていると、ぽつり、と一点が黒く染まった。
ぽつり、ぽつり、ぽつぽつとその点は増え、しまいには地面を全部染め上げて俺を濡らした。
コートが濡れる。髪が濡れる。けど俺は動こうとはしなかった。
俺の顔に流れる雫は、もう雨の雫だけじゃなかった。
雨はしばらく降り続け、でも一般の人にとってはにわか雨くらいの程度で止んだ。
俺にとってその雨はとても助かった。今思えば、君が死んでから一度も泣いていなかったのだから。
雨が止むと、厚い雲の隙間から陽が射し始める。
さあっと街を明るくする光に加えて、優しい風が吹いた。
「ハッ……まさか、ねぇ」
つい3日前に君と話した内容が頭の中によぎる。
そうさ、陽が出て風が吹くなんて気にも留めないほどの日常じゃないか。
ありふれたことだ、そう思い立ち上がった瞬間に、少し強い風が吹いた。
一瞬の出来事。
なのに何故か心はすっきりしていて、俺はようやく自分のマンションへの道程を歩きだした。
「ただいま」
2日くらい離れただけなのに、少しでも生活感のある部屋が酷く懐かしく感じられた。
部屋の奥からカタカタとキーの鳴る音が聞こえるので波江はいるのだろう。
「おかえりくらい言ってもいいじゃないか」
「随分遅いご帰還ね。てっきり帰ってこないのかと思ったわ。……あら」
いつものように冷たい一言を放って俺をちらりと見ると、波江は少し面白そうに笑った。
「どうかした?」
「何時からか知らないけど、あなた、そのまま帰ってきたの?」
ちょいちょいと波江が自分の頭を指差す。
なんだろうと自分の頭に手を触れると、はらりと何かが落ちた。
「散ったあとにあなたに付くなんて、運が悪いわね」
その落ちたモノに同情したように、まだ笑いながら波江が言う。
俺はそれを拾うと、珍しく目を丸くした。
掌の中には、小さな花びら。
なんの花だろう。薄くて、でもしっかりとした真っ白な花びらだった。
花びら自体は重さを感じないほど軽いのに、花びらがあるという事実は俺に重くのしかかる。
「………………はは」
笑いを零した俺を、波江は何事かと見たが気にしない。
俺はひらすら笑いながら寝室へと行き、ドアを閉めると同時にずるずると座り込んだ。
「ははははは…は、は……っは…」
固く食い縛った口から情けない声と共に息が漏れる。今となってはさっきの雨でさえ、君の優しさだったと思えた。
そうか、そういうことか。この世界に神なんていない。
ただ、俺の世界に神がいれば良かったんだ。
「お前は此処に居たんだ、名前」
( ──…見ぃつけた )