「名前、寒いから窓閉めて」
「?……わかりました」
臨也さんが自分の腕をさすりながら言う。
そんなに言うほど寒いだろうか。
そりゃあ部屋の掃除であくせく動く私に比べれば、パソコンの前から一歩も動かない臨也さんの方が寒いかもしれないけど。
その内いつも外出する時に着るコートまで羽織りだしたものだから、さすがに驚いて声をかける。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」
そういつもと同じ淡々とした笑顔と言葉で返される。
けど私は騙されなかった。
「絶対大丈夫じゃないです。……熱あるじゃないですか」
ぴっとりと額に付けた手からじんわり熱が伝わってくる。
顔も赤いし、これは完璧に病気確定だ。
「新羅さんに診てもらいましょう」
「だーいじょーぶだって」
「あ、もしもし、新羅さん?」
ひらひらと振られる手なんてお構いなしに、さっさと電話をかける。
新羅さんは、先客がいるからそっちに行けない、まとめて診ちゃうから連れてきて、と言って電話を切った。
「ということです。さあ、行きますよ」
「君ってなんでこう面倒なことに関して行動が早いんだい?」
「面倒なことだからですよ」
「それって俺のこと労ってないよね」
へらへらと笑いながら、臨也さんは降参、というように両手を上げて椅子から立ち上がった。
マンションから出て適当にタクシーを捕まえてから数十分。
開かれたドアから覗いたのは、セルティの白い首だった。
<新羅、臨也が来た>
「ああ、入って。そこのソファで待ってて」
「ねぇ、今すぐここから出ていきたいんだけど」
冗談じゃない、というような表情で臨也さんは眉をしかめる。
その頬に流れているのは、発熱による汗か、はたまた嫌なモノを目の前にした冷や汗かは分からない。
「あ"ぁ?なんでてめーが」
ギロリと、今はグラサンを外しているので直接眼で臨也さんを睨む静雄さんが、腕に包帯を巻かれながらそこに居た。
なるほど、新羅さんが言ってたのはこういうことだったのか。
『あ、ちゃんと名前ちゃんも付いて来てね。じゃないと僕とセルティの愛の巣が壊れちゃうか、らッ……っ痛いセルティ!!』
あぁ、正に新羅さんの言う通り。
静雄さんは既に手近にあったテーブルを持ち上げている。
セルティが一生懸命宥めているけど、あまり効果は無いみたいだ。
「俺は今メチャクチャ虫の居どころが悪ぃんだよ……!今現れたってことは殺されに来たってことでいいんだよなァ、いーざーやーくーん!!??」
「ちょっと待って下さい。臨也さんは風邪を診てもらう為に来たんです」
「そうだよシズちゃん。そんなに警戒しなくても大丈夫だって。ほら、ナントカは風邪ひかないって言うじゃない?」
ああもう。面倒なことが大好きなのはそっちじゃないか。せっかく正論で突破しようと思ったのに。
なんてことを考えてる間にも、静雄さんは順調に怒りのボルテージを上げているようだ。
いや、臨也さんに会った瞬間からメーターの最大値なんてとっくに振り切ってるんだろうけど。
「風邪で弱ってて、今が臨也さんを殺すチャンスだと思う気持ちはものすごく分かりますが」
「ちょっとそれひどくない?」
「それ以上に、静雄さんの怪我が心配なのでやめてください」
そう言って静雄さんの包帯を巻かれた部分を触る。
さっき治療したばかりの傷は、早速包帯を血に染めていた。
別に喧嘩をやめさせたくて言ったんじゃない。本当に心配なのだ。
「せっかく治療してあげたのにすぐ傷を開くなら、もう診てあげないよ」
「……………ちっ」
新羅さんの言葉が決定打となったのか、静雄さんは渋々テーブルを下ろす。
私の言葉だけで説得できなかったのがちょっと不満だったけど、もう子供じゃないし、と自分自身にため息をつく。
そんな私の前に、静雄さんが申し訳なさそうに立った。
「その、悪かった」
「あ、いえ……大丈夫です」
「全然大丈夫じゃないよ。ぶーっ」
いきなり私を後ろから抱き締めるようにして臨也さんが静雄さんに言い放った。
……というか、え?
目の前にはさっきまでの表情はどこへやら、静雄さんが口を引きつらせて笑っている。
そりゃそうだ。誰だっていきなり唾飛ばされたら怒る。
私は静雄さんが何か言う前に勢いよく新羅さんに向き直った。
「新羅さん、重症です」
「……みたいだね。そこに座らせて」
「おい、離れろ名前。今そいつを血だらけにしてやる」
「ダメです。今の静雄さんなら、臨也さんが血だらけになるのと同じくらい静雄さんの腕が血だらけになります。私の話、聞いてました?」
ぐっ、といかにも堪えた声を出して、静雄さんはまた舌打ちをしてどっかりと椅子に座った。
そんな静雄さんに、苦笑しながら少し頭を下げる。
「すみません。風邪で頭がスパークしちゃってるみたいで。そんな臨也さんに免じて、許してください」
「ふん。……名前に免じて許してやるよ」
ありがとうございます、とまた軽く笑って臨也さんを言われた椅子に座らせる。
今まで気付かなかったけど、よく見たら臨也さん、汗だくだ。
「何か酷い症状とかある?」
「頭、いたいかなぁ……」
こんな臨也さん見るの初めてかもしれない。
はからずも私は、苦しそうに肩で息をする臨也さんに少しぞくりときてしまった。
…………これ以上深く考えないようにしよう。じゃないと、何かヤバイ気がする。
この気持ちがバレたら、なんて考えると生きた心地がしなかった。
「うん。典型的な風邪だね。薬飲んで寝てれば治るよ。あ、でも食事はちゃんと摂ること。名前ちゃん、よろしく」
「はい」
セルティが持ってきてくれたおしぼりで臨也さんの顔を拭きながら、私は頷いた。
新羅さんはセルティに薬を持ってくるように頼むと、今度は静雄さんの怪我を診に行った。
<随分辛そうだな。泊まっていくか?>
「だって臨也さん。あんまり辛いなら、泊めてもらいましょう」
薬が入った袋と一緒に差し出された画面に、心配そうな文章が映る。
臨也さんなのにこんなに考えてるくれるなんて、セルティは優しいなぁ。
私が臨也さんに聞くと、臨也さんは力なくふるふると首を横に降った。
「だ、そうなので帰ります。ありがとう」
<気にするな>
素早く文字を打ち込む彼女にもう一度お礼を言って、臨也さんの腕を肩に回して立ち上がったあと、新羅さんにもお礼を言った。
「静雄さんも、あまり無理しないで下さいね」
「お前も、風邪うつされるなよ」
気をつけます、と返事をして、マンションを出る。
新羅さんが呼んでくれたタクシーに乗って新宿へ向かっていると、臨也さんが面白そうにへらへらと笑いだした。
「くくっ……シズちゃんてば本当に鈍感だよねぇ。名前がちょっと傷心してるのも知らずに」
「……いいですよ。そんなに気にするほど、子供じゃないです」
「ああ、でも今の君の表情はまるで拗ねた子供だよ?いや、正確にはシズちゃんが新羅の言葉でおとなしくなったあたりからだけど」
「ご飯、作りませんよ」
先ほどの弱った表情はどこへやら、すっかりいつもの嫌な笑顔を浮かべている。
少し違うとするなら、顔が赤いことくらいかな。
うん、少しは可愛げがある。
だから、いつもの人をおちょくるような言葉でも気にならないのだろう。
そうこうしている間にもタクシーはマンションの前に止まっていた。
「………………」
「どうしたんですか?」
早速マンションに向かって歩き出したのに、肝心の臨也さんがついて来ない。
不審に思って振り返ると、じっとこちらを見つめてただ一言、
「帰らないの?」
と言った。
言葉の意味が分からず、しばしの沈黙。
一体どうしたというのだろう。
「いいよ、帰って。シズちゃんのせいで心を痛めた名前ちゃんは傷心旅行にでも行っておいで。ああ可哀想にねぇ」
「臨也さん……」
そんな大袈裟に言わなくたっていいじゃないですか。
さっきまでは可愛いと思えた言動が今では単なるイラツキの対象になる。
尚も言葉を紡ぐ臨也さんに耐えきれなくなった私は、マンションから90度角度を変えた。
「そんなに言うなら帰りますよ!!傷心旅行に出るので、しばらく来ません!」
いってらっしゃーいと後ろから掛けられる間延びした声に更に苛立ちながらずんずんと歩く。
なに、なんなの、なんなのよ!
静雄さんのことは、別に気にしてない。
「名前に免じて許してやる」とか、最後に「風邪うつされるなよ」って言ってくれただけでもう充分なんだから!
と、そこまで考えてふと気付く。
あれ?私、帰っちゃったらうつされる心配ないじゃん。
もう感染済みかもしれないけど、今から付きっきりで看病することに比べたら感染する確率はずっと低いワケで。
…………まさか。
「臨也さん!!!」
振り返ってとりあえず叫ぶ。それから足を動かした。
臨也さんはエレベーターを待っていて、少し驚いたようにこちらを見ている。
どうやらこの判断は正解だったようだ。
何も言わず走って戻れば、臨也さんは私のことなどお構いなしにさっさとエレベーターに乗ってしまっただろう。
「どうしたの?」
「はっ……はぁ、あ、あの」
切れる息を必死で整える。
ドアを開いて乗客を待つエレベーターが、やけに寂しく見える。
「やっぱり私、臨也さんと一緒にいます」
「だから帰っていいって──」
「いいんです!私が決めたんです。だから……だから、私に風邪がうつっても自業自得です」
まっすぐ臨也さんの眼を見る。
ああ、紅い。
この瞳には、すぐ吸い込まれそうになってしまう。
しばらく黙っていた臨也さんが、急に笑いだした。
「アッハハハハ……じゃあ、おとなしく看病されようかな」
「はい。今思えば、私、新羅さんに頼まれてたんでした」
言いながら、2人でエレベーターに乗る。客を得たエレベーターは、待ってましたとばかりに勢い良く動きだす。
その中で臨也さんが不意に言葉を紡いだ。
「そういえばさぁ、風邪って適度に汗かいたら治るって言うよね」
「そうですね。まさか運動するつもりですか?」
「うーん、俺は名前と2人で運動したいなぁ。夜はたあっぷり時間があるし」
「……セクハラで訴えますよ」
「おや、さっき自分で言ったじゃないか。『自業自得』だ、って」
うぐ……何も言えない。
まあ臨也さんの変態発言にもこれからの行動にも付き合う気はないのだけれど。
部屋についたら、さっさとベッドに押し込んで、薬を飲ませて眠らせてしまおう。
そう決意する私には、臨也さんの小さな呟きは聞こえなかった。
「全く、折角気を遣ったのになぁ、色んな意味で」
「まあ、そんなとこも含めて全部好きだけど」
「……何か言いました?」
「名前をどう料理してやろうかなってね」
「そういえばご飯食べてませんね。お粥作りますよ」
「スルーしちゃうんだ」
チン、と小気味いい音を立ててドアが開く。
その音は同時に、私にとっての地獄が始まる合図だったなんて、この時の私は知る由もない。
風が吹く
そのあとは、自業自得にしては余りにも自分が可哀想だと思う展開になりました。