短編 | ナノ


雨だった。

どしゃ降りだった。傘はなかった。正確に言うと、壊してしまって使い物にならなかった。

薄暗く重たい雲から降ってくる雨は俺の体を冷たく濡らす。腕が軋む。足が痛い。ジクリと疼く傷は、雨に濡れても熱を持ったままだ。背中にあるランドセルが異様に重い。張り付いた服や髪が気持ち悪かった。


「君、大丈夫?」


……雨が止んだ、気がした。

声のする方へ視線を向ける。見上げた先には、見知らぬ女の人。誰だ、この人。知らない人だ。これ、来神高校の制服か。
その人は俺の頭上に傘を傾けて、肩にかけた鞄を漁り始めた。ハンカチにしては少し大きな、明るい水色の布を取り出すと、俺の額や頬に当てる。それはとても柔らかくて、ふわふわで、雨に濡れた俺からどんどん水分を奪っていく。


「もっと大きなタオル持ってればいいんだけど…。というか場所移そうか」


あそこ、と指差された先は公園の中にある小さな小屋のような、休憩所のような、そう、東屋みたいなところだった。水道とベンチがあるだけだけど、屋根があるだけここよりマシだ。こっくりと頷くと、女の人は微かに笑って手を引いた。誰かと手を繋ぐのは久しぶりで、俺は握り返すことができなかった。どの程度力を込めればいいのか、わからなかったから。


「それにしてもすごい有様だね。転んだとかいうレベルじゃないよこれ」


擦り切れた膝を濡らしたハンカチで拭かれる。痛みに顔をしかめると、「我慢我慢」と女の人は笑った。

この人は、変だ。

普通こんな小学生がいたら、声を掛けることはあってもここまで世話を焼くことはない。それに俺はもう、それなりに有名だった。ここら辺の人たちは、俺に声を掛けることさえしない。

膝だけでなく傷や泥が付いた場所を綺麗にしていく女の人の手先をじっと見つめる。不意に女の人と目が合った。……この人は、変だ。初対面で俺をこんなにどきどきさせる。


「……も、いい」

「いいわけないでしょ」

「いいんだよ!こんな傷…俺は、化け物なんだからっ!」


もう、目を合わせてはいなかった。いくらか綺麗になった膝小僧に乗せた拳が痛い。優しい人は、俺に近づくべきじゃないんだ。俺自身の力で握り潰してしまうから。家族以外の温もりを求めることは、もうやめた。

骨折や打撲なんかは少し時間が掛かるけど、擦り傷や切り傷ぐらいは明日になれば傷は塞がっている。だから、要らないんだよ。あんたの優しさなんて。傷を隠すように貼られた絆創膏なんて、要らないんだ。


「……」

「……」

「……ふん!」

「、った!」


突然降りかかってきたグーに、俺は思わず声を上げる。当然殴ったのは女の人で、見上げるとそこには悲しそうな表情があった。別にその人が何を言うわけでもないのに、何故か泣きそうになる。慌てて唇を引き結んで奥歯に力を入れた。


「なんてこと言うの」

「……、」

「化け物だって?自分の姿鏡で見てみなさいよ。こんなに傷だらけの化け物なんていないでしょう」


違うんだ。見た目がどうとかじゃないんだ。外見が人間でも、傷だらけでも関係ない。この力が、自分をも傷つける強大な力が、俺が化け物と呼ばれる由縁なんだ。

そんなことを言い返したいのに、ぐっと奥歯を噛み締めているせいで言葉が出ない。もしかしたら、言いたくないのかもしれなかった。俺が化け物と呼ばれる理由なんか。


「…この世で一番怖いのは、人間だよ」

「……?」

「騙して、奪って、裏切って。大事なのは力じゃない。心だよ。例え化け物でも、その心が優しいものであるのなら、私はそっちの方が好きだな」

「あ……」


この人は知っていたのか。俺が人間じゃありえない力を持っていることを。知ってて、ここまでしてくれたのか。

殴られたところに、そっと温もりが乗る。撫でられていると気付くまで、少し時間が必要だった。だって、これ、久しぶりだ…。


「私、知ってるんだよ。君、傷だらけで歩いてるとき、いつも泣きそうな顔してる」


私の通学路と君の帰り道、たぶん同じだから。と続けるその人は、やっぱり泣きそうな表情をしていて、ぎゅうぎゅうと胸が締め付けられた。息をするのが苦しい。でも、撫でられる感触はとても心地好い。矛盾した思考はすでに熱で浮かされたように止まっている。


「君がとても大きな力を持ってるのは、きっとどうにもならないと思う。だったら、これからどうやって力を使うのか、上手く使えるのか、それを考えた方が、人生前向きだと思わない?」


軽い口調とは裏腹に、その声色は俺に嘆願しているように切ない。
けれど女の人は、またその表情を優しいものに変えた。不思議な人だ。どうして、こんなに俺の感情と繋がるような表情ができるのだろう。


「まだ難しいかもしれないね。じゃあ、簡単なこと一つ。子供は子供らしく、大人に甘えなさい。お母さんでも、お父さんでも、寂しいときは、悲しいときは、抱きついて甘えなさい。泣きたいときは泣いていい。君の優しい心は、きっと傷つきやすいから」


どうして。

どうして。

今まで強く噛んでいた奥歯の力が、へにゃりと抜けた。零れる嗚咽。せっかく拭いてくれた頬に伝うのは、雨とは違う熱い雫。しばらく泣いていなかったから、俺はすごく不格好に泣いた。くそ、こんな、かっこうわるいところなんか。

女の人は俺が泣き止むまでずっと頭を撫でてくれた。流れる涙は少ししょっぱくて、腕で拭ったら雨よりも傷にしみた。それでも止まらなかったのは、きっとこの人が隣にいたからだったんだと思う。ぐずぐずの俺の顔をもう一度ハンカチで拭いたあと、女の人は立ち上がって俺の手を引いて立たせた。


「さすがにこれ以上外にいたら風邪ひいちゃうね。私の傘あげるから、それで帰ればいいよ」

「でも、」

「いいのいいの!言ったでしょ、大人に甘えなさいって。まあ、言っても私はまだ高校生なわけだけど」


明るく笑うその人が傘を押し付ける。渋々それを受けとると、それでいい!と、また頭を撫でられた。でも貰うのはやっぱり気が引ける。


「……名前」

「え?」

「名前、教えて」


名前がわかれば返せる。でもそれは表向き。最悪学校行きゃなんとかなる。本当は、人と関わりを持ちたかったのかもしれない。俺自身を見てくれる、この人と。


「うーん…。君が、自分に自信を持てるようになったら教えてあげる。自分が化け物だからって人を引き離すことがないようになったらね」


ぱちん、とウィンクをして、女の人は走っていってしまった。追い掛けようと思ったけれど、今までどこか浮わついていた思考が一気に現実味を帯びだして、足は動かなかった。

また、会えるだろうか。この傘を返すまで。俺が俺に自信を持てるまで。ピンクの傘を握り締めて、俺は公園の出口へと向かった。





結局、俺が高校を卒業してこの取り立ての仕事につくまで、彼女に会うことはなかった。通学路も、注意して帰っても彼女はいなかった。

リッパーナイトの事件以来、俺は自分に自信を持てるようになっていた。自分を、好きになれるようになっていた。だから会いたい。俺に変わるきっかけを、変わろうと思うきっかけをくれた彼女に。人間を突き放す癖に、誰よりも人間に憧れていた自分に気づかせてくれた彼女に。

雨だった。どしゃ降りの雨だった。傘はぼろぼろに折れていた。喧嘩するつもり、なかったんだけどな。今日はちょっと痛ぇかも。金属バッドだもんなぁ…。

久しぶりに仕事とノミ蟲以外で力を振るった。落ち込むのは当然だ。せっかく、力も制御できてきたっつうのに。
頭から血が出ているがそれも雨で流されてしまう。幽からもらったバーテン服が血で汚れていく。くそ…。


「あの……大丈夫ですか?」


聞き覚えのあるようなないような、あの日の彼女が大人びたような声。顔を見た瞬間、俺はもう別のことを考えていた。



──…あの傘、まだ家にあるよな。



(雨が止んだ、気がした)











▽▽▽▽▽
小夜曲様に提出させていただきました。





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