『どうしよう新羅』
電話の向こうから聞こえてくる、今まで聞いたことのないほど動揺した同級生の声を聞きながら、新羅は珍しく背中に冷や汗が伝うのを感じた。
頭の中で二重の心配がむくむくと膨らんでいく。そんな思考回路を精一杯制御して、新羅は至って冷静に口を開いた。
「…いいかい臨也。今すぐ彼女を僕のマンションまで連れてくるんだ。目立つといけないから、ちゃんと首輪や足枷は外すんだよ」
『う、うん、わかった』
この様子だと、たぶん素直に連れてきてくれるだろう。隣で何事かとそわそわするセルティに簡単に事情を説明し、新羅は部屋から大量の包帯や点滴、ガーゼなどの医療器具を抱えながら決心した。
「(今度こそ、彼女を助けなければ)」
臨也に抱かれた彼女を見たとき、新羅は一瞬言葉を失った。
ぐったりとして意識のない顔は蒼白で、ぶらりと垂れ下がった手足はまた一段と痩せ細っている。
「しん、ら…」
「…大丈夫、心配いらないよ。さあ彼女をこっちへ」
焦燥し切った顔で訴える臨也の声にハッとして二人を迎え入れる。治療台に彼女を寝かせて、臨也をリビングへと押しやった。
新羅が治療室から出ると、セルティが臨也の相手をしてくれていた。ドアの音に顔を上げた臨也がすぐさま新羅に駆け寄る。
「新羅、彼女は…」
「幸い命に別状はなかった…と言いたいところだけど。栄養失調からひどく衰弱している。もう少し遅かったら危なかった。だからしばらくは返せないよ」
「そんな……」
「そんな?」
臨也の小さな呟きに、眼鏡の奥の瞳が細くなる。
「そんなって何?君は彼女の容態よりも彼女が傍にいる方が大事なのかい?それって彼女は死人でもいいってこと?」
〈新羅、少し言い方がキツイぞ。臨也だって混乱してるんだ〉
「セルティ…。ごめん、いくら君の言うことでも今回ばかりは聞けないよ。あと、君にこんなことを言うのはとても心苦しいのだけど、少し席を外してほしい」
〈新羅…わかった〉
新羅のなかなか見ない真剣な表情にセルティは首だけで頷くと、治療室に行った。きっと彼女の様子を見るつもりなのだろう。
治療室のドアが閉まるのを確認して、新羅はソファに腰掛けた。臨也にも座るように促す。
「さて、臨也。一つ質問があるんだけど」
「なに…?」
「栄養失調の他に外傷もしっかりあった。右足と左腕の骨折、全身には内出血と切り傷が無数にね。…君の仕業かい?」
臨也の紅い目を眼鏡越しにじっと見据えて、新羅は問い掛けた。臨也は困ったように眉を下げる。
「だって彼女、逃げようとするんだ。首輪も足枷も付けているのに、俺が彼女を愛そうとするたびに暴れるから」
まるで躾できないペットの悩みを打ち明けるかのように、臨也は頬杖をついてため息をついた。
新羅はそんな臨也の目を依然として見つめる。
「俺はただ彼女を愛そうとしているだけなのに。でも逃げるってことは俺の愛が足りてない証拠だよね。だから元気になったらもっと愛してあげるんだ!」
子供のように無邪気な笑顔で臨也は言う。新羅は少しだけ哀れみの視線を瞳に映したが、それが臨也に伝わっているかは分からなかった。
「そうだ、今度は耳も目も塞いでしまおう」
「臨也」
「俺の声だけ聞こえるように、俺の顔だけ見えるように」
「臨也」
「そうしたら彼女の世界は俺だけになって、きっと俺の愛も伝わる──」
「臨也、もうやめよう」
少し声を大きくして新羅が臨也の言葉を遮った。さっきまで恍惚な表情をしていた臨也は、一瞬きょとんとしたあと不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
けれどそんな臨也の表情にも臆せずに、新羅は言葉を続けた。
「君のそれは、愛じゃない」
その一言は、臨也の歪んだ心にぴしりとヒビを入れた。
「確かに君は彼女を愛していた。いや、今現在も愛しているかもしれない」
「何言ってんの?今も愛してるよ、誰よりも深く」
「違う。今の君の気持ちはただの独占欲だ。子供がお気に入りの玩具を離したがらないような、ね」
どんどん臨也の表情が歪んでいく。それでも新羅は事実を突き付けることをやめない。寧ろ決定打とも言える一言を口にした。
「その証拠に、臨也、彼女を名前で呼ばないじゃないか」
「……、」
口を開きかけて、しかし臨也は唇を噛んだ。名前を、言うつもりだった。けれど出てきたのは小さく息を吸う音だけ。吐き出された息に、声は乗らない。
「ねぇ、彼女は"誰"だい、臨也」
「あ…、彼女、は」
はくはくと口を開け閉めして、臨也は目を泳がせる。
名前、名前、名前名前名前!
こんなに愛しているのに、愛している相手の名前がわからないだって!?どこかの首好きでもあるまいし、俺はちゃんと彼女を知った上で──、
「もう、夢は終わりにしよう」
新羅の言葉が、ガンガンと臨也の脳内にこだまする。
頭を揺さ振られているようなその感覚に、臨也は無意識に両手で頭を抱えた。
「君の愛した"彼女"は、もういないんだ」
ヒビが広がる。何かが割れる、音がした。
「俺も、もっと早く助けてあげるべきだった。君のマンションに往診に行ったとき、もっと早く連れ出しておくべきだった」
「しんら…なにいって、」
「臨也、お願いだ。目を覚ましてくれ。君は俺の親友だ。俺は君を救いた─」
しかし新羅の言葉は最後まで言い切られることはなかった。真っ白な白衣が、腹部から赤く染まっていく。そう、まさにその色は、臨也の瞳のような紅。
「…は、ぁ……っ」
「新羅。君ちょっとうるさいよ。俺と彼女の世界に割り入って壊すようなら、容赦はしない。親友でもね?」
臨也の手には、真っ赤に染まったナイフ。新羅が焼けるように熱い腹部を押さえて霞む視界で臨也を捉えれば、臨也はソファから立ち上がり治療室へと向かっていた。
「せる、てぃ…」
新羅の言葉は、文字通り血の洪水に飲み込まれた。
俺たちの世界は、誰にも崩れさせない。