「藍!」
「千景……」
幾日ぶりかに家の外から出ると、すぐに千景が駆け寄ってきてくれた。きっと今日も静雄兄さまに私を出してくれるよう頼みに来てくれたんだろう。
優しくて、強くて、大好きな大好きな千景。けれど、その千景の顔を見て満面の笑みを浮かべることはできなかった。
「……どうした?静雄さんに怒られたこと、まだヘコんでんのか?」
「ううん、違うの。それより千景、ごめんね。私のせいで兄さまに殴られちゃって……。痛かったでしょ?」
そっと左の頬に手を伸ばす。そこはまだ腫れていて、うっすら赤みを帯びていた。千景が言うにはもう全然へっちゃらみたいだけど、あの静雄兄さまのパンチだ。絶対強がってるに違いない。
「俺のことはいいって!それより、散歩行こうぜ」
「うん……ありがとう」
千景は私に気を遣ってくれている。やっぱり千景は優しいなあなんて今さら再認識しながら、差し出された手を取った。
しばらく海の中を漂って、いつも通りの風景にやっと気持ちが晴れてきた頃、私は千景にある相談を持ち込もうと決めた。元々元気はつらつ、という性格ではない私なのだから、一人悩んで解決する筈はない。
千景だったらきっと受け止めてくれる。そう信じて、口を開いた。
「あのね、千景。相談があるんだけど……」
「ん、どした?」
「今、ちょっと……迷ってることがあって」
幽兄さまから聞いた話。静雄兄さまが、昔は人間のことが大好きだったこと、ある事件をきっかけに、人間を嫌いになってしまったこと。そして人間もまた、人魚を忌み嫌っていること。そして静雄兄さまは、きっと私に昔の自分を重ねている。だから、あんなに怒ったのだろう。
これらを踏まえて、私は人間の『彼』を好きでいていいのだろうか。私が人魚だというだけで、彼は私に嫌悪感を抱くのではないだろうか。静雄兄さまの気持ちを、無視して自分の気持ちを優先していいのだろうか。
「わからなくなっちゃった……私の、本当の気持ちが」
今まで迷いなく人間の彼に恋をしていたというのに。
千景は私の隣でうーんと唸っていた。期待と不安が入り交じった気持ちで千景を見つめる。
「……考えすぎじゃね?」
「え?」
「なんつーかよ…別に藍がどうこう考える必要ないんじゃねぇのかな。身内がこうだからって自分の気持ち抑えてたら、いつか本当にしたいこと、できなくなるぜ?」
って、俺は思うけどな。
千景はそう控えめに笑って、でも少し胸を張って言った。
……そっか。そうだったんだ。ドキドキと胸の鼓動が大きくなる。自分のしたいこと、自分の気持ち。大事なのは、自分の意思。私が、あの人のことをどう思っているかということ。
そうとわかれば、私は何も迷う必要なんて無かった。
「……千景はすごいね」
「んなこたねぇよ。ただ、答えは出たみたいだな」
ぐしゃりと頭を撫でられる。変わらないな。千景は昔から。いつも真っ直ぐで、周りに囚われない。けど他人の為に本気で悩んだり、喜んだりしてくれる。
「迷いが吹っ切れたところで、改めて一回りすっか?」
「うーん……それもいいんだけど……」
「ん?どっか行きたい場所とかあるのか?」
千景の問いに、私はうん、と頷いた。兄さまの話を聞く前から、私がぜひ会いたいと思っていた人だ。
かつて人間の女性に恋をし、また彼女からも愛され、ついに人魚と人間という種族を越え、二人で海の中で暮らす人。
──……岸谷新羅の元へ。