melt, in the sea. | ナノ


「っ、兄さま!兄さま出してください!」

「だめだ」

「ならせめて…千景をこれ以上怒らないでください…!」

「決まりを守らなかったのは藍、お前だ。だが六条は止めなかった。人間と関わろうとするお前を」



だから、六条にも罰が必要なんだ。

そう言った静雄兄さまの声は、珍しく静かに静かに怒りを押し殺していた。……我慢しているんだ。本当はもっと私や千景を厳しく叱りたいのに。結局千景も一度殴られただけで、あの人間がいなくなった後も兄さまは殴らなかった。

兄さまは人間が嫌い。確かに私たち人魚の中で人間を嫌う者は少なくない。寧ろ、ほとんどの人魚が人間に対してあまり良い感情を抱いていないと思う。けれど、兄さまのそれはこの海の中でも郡を抜いていた。



「藍」



兄さまが私を部屋に閉じ込めて3日目。鍵を掛けられてびくともしない扉越しに、幽兄さまの声が聞こえた。静雄兄さまはあれからずっとここには来ないし、思わず駆け寄ってしまう。



「幽兄さま……」

「今日で3日目。あともう少しの我慢だよ、藍」

「はい…」



幽兄さまはいつも通り、淡々と会話を進めていくだけだった。閉じ込められて退屈はしていないかとか、日の光は恋しくないかとか、外の様子だとか。



「あの日から毎日、千景くんが来てる」

「え…」

「兄さんに藍を出してくれるよう頼んでるみたい。まあ、単純に藍が心配なんだと思うけど」

「千景が……」

「そろそろ折れるんじゃないかな。兄さんも、好きで藍をここに閉じ込めている訳じゃないんだから」



それは、あの静雄兄さまを見ていればわかる。叱りながら、とても辛そうな顔をしていたから。怒りを抑えるよりも何よりも、静雄兄さまは怒りたくないのだ。特に今回のように、重い過ちを犯してしまったら。それは罰する方も、罰せられる方も、同じくらい痛くて辛いこと。

幽兄さまはため息にも似た長い息を吐き出すと、再び扉越しに話し掛けた。



「兄さんも、藍と同じだったんだよ」

「え…?」

「藍は生まれたばかりで小さかったから、覚えて…というか知らないと思うけど」



今も分かるように、兄さんは周りの人魚より力が強かった。子供ながらにして大人を凌ぐほどに。そんな兄さんは、誉められるより貶されることの方が多かった。認められるより、非難されることの方が多かった。

そんな時兄さんは見てしまったんだ。海の中に沈んでいく女の人を。兄さんはほぼ無意識だったんだと思う。重りになっていた大きな木の破片を、女の人の上から退かして海上まで連れていった。



「それって、まるで…」

「そうだよ。藍と同じ。でも、大事なのはここからだ」



海面へとその人を引き揚げた兄さんは、辺りを見回して呆然とした。そこにはぼろぼろになった簡素な船の残骸と、木の破片、そして数人の人間しか浮かんでいなかったから。



「後で知ったことなんだけど、そこで船同士がぶつかる事故があったんだ。女の人は波が荒れてきた時に、掴まっていた木の破片がひっくり返って沈んでしまったみたい」



助けを待っていた人間たちは、女の人を連れた兄さんを見て全員が顔を歪めた。

──人魚がそうであるように、人間もまた、人魚を嫌う者が多いのだから。

そうして人間が兄さんに浴びせた言葉は──。



『人魚は災いの象徴だ!!急に海が荒れこの船が転覆したのも、この人魚がいるからだ!!まさか災いの元が実在するとは…!』



兄さんは人魚であるというだけで、今までの災害や事故の元凶だと罵られた。見に覚えのない凶事の原因を押し付けられて、兄さんが怒らないはずもない。それでも力を奮わなかったのは、腕の中に一人の人間の重さがあったから。

兄さんは、きっと無意識に、その人に恋をしていたんだ。



「そんな…」

「兄さんは、決して最初から人間をあんなに嫌っていたわけじゃない。……けれど」



今まで我慢していた兄さんを壊してしまったもの。それは、たった一言。



『そいつも人魚に助けられるとは、人間の恥め』

「……ッ!!」

「あろうことか人間たちは、兄さんが助けた女の人まで罵倒し始めた。大切な人が…好きな人がいる藍なら、耐え難いあの気持ちがわかるよね」



気付けば辺りは更に細かくなった木屑と、割れた岩、意識を失った人間が漂うだけになっていた。人数が減っていなかったのは奇跡に近いだろう。誰も溺死なんてしなかったから。
それから助けに来た他の人間の船が、その惨状を見た。船の残骸に、意識不明の人間たち。しかも兄さんの腕には人間がしっかり掴まれている。人魚をよく思わない人間が見たら、思うことは一つだ。



『これは……すべて人魚がやったのか』

「また同じことを繰り返さないように、兄さんは最後まで抱いていた女の人を船に投げ入れて、海へと深く潜った」



私は言葉が出なかった。まさか静雄兄さまにこんな過去があったなんて。助けたはずなのに、純粋に助けたい気持ちがあったはずなのに、最後には憎しみと悲しみしか残らないなんて。



「だからね、藍。この罰のせいで……あまり兄貴を責めないであげて」



優しい幽兄さまの声に、私は声を押し殺してただ頷くことしかできなかった。涙が、溢れそうだった。

3日間、千景や人間の彼のことばかり考えていた私の頭の中は、今は静雄兄さまのことしか思い描くことができなくなっていた。





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