──…遠くで人の声がする。
ゆっくり目を開ける。けれど、打ち付ける冷たい雫に俺はまたすぐ瞼を下ろした。びゅうびゅうと吹き荒ぶ風の合間に聞こえるのは、さっきうっすらとした意識の中で聞いた人の声。どうやら言い争っているらしい。
ようやく物事を認識し始めた頭で今までの自分を振り返る。確か海に出て、揺れた船から落ちたんだっけ。我ながらヘマをした。いや、嵐が来ると知っていて海に出た時点で、もうすでに間違ってた選択だったのだけれど。
……待て。大事なところが欠落している。
海に落ちたあと、俺は為す術なく沈んだ筈だ。どうして俺は生きてる?ここが死後の世界かとも思ったが、死後の世界も嵐で荒れたりするのだろうか。
そう考えると、俺はどうやら生きているらしい。運良く打ち上げられたか、誰かに助けられたか。可能性としては後者の方が高いな。
とりあえず状況把握だ。感覚を取り戻してきた冷たく軋んだ体を起き上がらせようとした瞬間、隣にどしゃりと何かが落ちてきた。いや、訂正。何かじゃなくて人間だった。
「ッてぇ…!……あー、藍、大丈夫だから!そんな泣きそうな顔すんな……って、あれ?お目覚め?」
「……君は、」
「悪いけど、今取り込み中なんだ。寝たフリしてた方がいいぜ」
頬に痣を作って苦笑混じりにそう言った彼は、顔だけ見れば人間だ。ただ、俺は見てしまった。目に入れてしまった。彼の、まるで魚のような下半身を。
「六条、何ブツブツ言ってやがる…!」
「いや、静雄さんのパンチは効くなーって」
「全然効いてるようには見えねぇな。もう一発お見舞いしてやろうか?」
……なるほど、確かに今は寝たフリをしていた方がよさそうだ。恐らく相手の怒りを買ったのであろう六条と呼ばれた男は、その割りにへらりと笑ってみせた。
と、二人の低い声の間に可憐な少女の声が割り込んできた。三人目の声に俺は少しだけ興味を示す。ただ、体を起こしていない俺には六条しか見えない。ああもう、こんな面白そうな場面なのに。
「兄さま、やめてください!千景は悪くないんです、私が勝手に、」
「藍は黙ってろ」
「そうそう。藍は余計なこと言わなくていーの。俺が嵐が来るからって帰ろうとした藍を無理矢理引き止めたんだ。この人間に接触したのも俺のせいだ」
「千景…!」
少女の声はまるで六条を責めていてそれでいて心配しているような、切実なものだった。「どうしてそんなこと言うの」、とでも言いたげだ。なら君がはっきり説明してやればいいとも思うが、さっきのやり取りからして少女の言い分はばっさり切り捨てられているらしい。
「不憫だね」
「誰が」
「君と彼女が」
「こりゃ参ったね。お前、会話だけで状況を把握してんのか?」
「ただの推測だよ」
「へぇ。頭いいんだな」
「さて、そろそろ起きてもいい?」
自分から聞いておいてなんだが、返事を待たずに体を起き上がらせる。これ以上寝転がったまま雨風に曝されるのはごめんだ。隣で六条が「どうなっても知らねぇぞ」とため息混じりに呟くのが聞こえた。その言葉に小さく笑いながら、さて、改めて状況を把握させてもらおうか。
「……すごい」
「あ?」
まず目に入ったのは至極機嫌が悪そうな金髪の男だった。眉間に皺を寄せて、鋭い眼光が六条から俺に移る。その後ろには唯一の女性が見えた。たぶんさっき必死に声を上げていたのはあの少女なのだろう。泣きそうな顔でこちらを見ている。
しかし俺が感嘆の声を上げたのは、そんな普通の情報ではなかった。半分は海に入っているため全部は見えないが、六条と同じく金髪の男も少女も下半身が明らかに人間のソレとは違ったからだ。海に入っている腰のラインぎりぎりからちらりと見えるのは、この暗い空でもわかるくらい艶やかに光る鱗だった。
「ねぇ、一つ質問してもいいかな」
「黙れ人間。手前に言うことは何もない」
「君らって、人魚?」
金髪の男の言葉を無視して淡々と核心を問い掛けると、男はますます目を細め眼光を鋭くした。はい決定。君らは粉うことなき人魚だ。下半身以外は普通の人間であるらしい彼らは、やはり反応も人間そのもので俺はくすりと笑ってしまった。
「……何笑ってやがる」
「別に。嬉しいだけさ。俺、ずっと人魚を探してたから」
「……言いたいことはそれだけか」
さっき黙れ人間とか言ってたくせに。はは、人魚って結構単細胞だったりするのかな。いや、六条はそうでもなさそうだから、ただ単にこいつが単細胞なだけか。
他に用が無いなら消えろ、お前が消えないなら自分たちがもう消えるという意味を込めて未だ睨み付ける金髪に、そんな怒らなくてもさっさと帰るさと軽く返して俺は立ち上がった。まだちょっとふらふらするけど立って歩くには問題ない。この嵐が痛いが、途中で絶賛俺を捜索中の部下と行き合う可能性が高いので大丈夫だろう。
くるりと海に背を向けてから、ふと唐突に思い出したことがあり、少しだけ振り向いた。
「ごめん、もう一つ。あんまり女の子いじめちゃダメだよ。女の子の話はちゃんと聞かなきゃ。溺れた俺を真っ先に助けに来てくれたのは、彼女なんだから」
意識を失う直前にうっすら見えた少女の顔。今になって思い出した。間違いなくあの少女だろう。
今のままだと彼女も六条も報われないので、俺は当事者でありながら第三者として正確な答えを放り投げてやった。あとは三人でお好きにどうぞ。どうせこの言い合いは海の中で続けられるんだろうから、俺は見れないし大人しく退散しよう。
それにしても今日はなんて吉日なんだ。
自分を襲う雨風など気にならないほど気分がよくて、俺は軋む体でスキップをしながら砂浜を抜けた。