melt, in the sea. | ナノ


上から降り注ぐ太陽の光に、眠い目を擦る。くあっとあくびをしたところで幽兄さまの声が聞こえてきた。



「藍、千景くんが来てるよ。早く支度した方がいいんじゃない?」

「えっ、うそ、もうそんな時間!?」

「……。千景くんには中で待っててもらうから」

「ごめんなさい、ありがとう幽兄さま!」



どうやら私が朝日だと思っていた日の光は、朝日と呼ぶには遅すぎたらしい。慌ただしく髪を整え、お気に入りのネックレスを首に掛けて部屋を出る。千景が待っているであろう玄関へ向かう途中で、さらさらの金髪がこちらに向かってくるのが見えた。…タイミング悪い、なあ。



「また六条と出掛けるのか」

「はい…」

「六条と一緒だからって、海の外に顔出すなよ」

「わかってます…!」



この前怒られてから一週間は経つのに、兄さまは口酸っぱくこの忠告をしてくる。私だって十分反省はしているのに。

ただ、あの人を忘れたのかと言われれば、それは全くの嘘だった。だって仕方ないじゃない。寝ても覚めても、千景と一緒にいる時でさえ、頭の隅にはあの人の横顔が焼き付いているのだから。



「あと、今日は昼過ぎには帰ってこいよ」

「どうしてですか?」

「夕方に嵐が来る。海が荒れるからな。流される前に帰ってこい」



わしゃわしゃと乱暴に髪を掻き回すのはいつもの大きな手。その手から伝わるのは、兄さまが心の底から私を心配してくれているということ。なんだかそれがすごく嬉しくて、私は思わず笑ってしまった。



「っあのなあ、俺はお前のことを心配して、」

「わかってます。今日は早めに帰りますね」



ああ、やっぱり兄さまは優しい。
温かで、強かで、美しくて。



「静雄兄さま」

「んだよ」

「いってきます」

「ん」



最後にぎゅうっと抱きつくと、静雄兄さまは今度は優しく頭を撫でてくれた。その心地好さに目を閉じてから、再びいってきますと言って千景の元へ向かった。





千景と一緒にゆらゆらと海を漂うのは、結構、いやかなり好きだ。いつだって新しい発見があるし、何より千景やみんなと一緒に泳げることがとても楽しいから。

ただ最近は、海の中だけじゃなくてどうしても外の方に意識が行ってしまう。あの人は今頃どうしているんだろうとか、また顔を出したら会えるかなとか、考えることは止めどなく溢れてくる。けれど、それを確認することもできはしなくて。



「嵐?」

「うん。兄さまが、今日は夕方に嵐が来るから早めに帰ってこいって」

「ふーん。そういや、ちょっと上が暗くなってきた気がするな。もう荒れ始めてるんじゃねーか?」



千景が上を見上げる。確かに、まだ夕方にはなっていないのに日が沈む直前のような暗さだ。これはもう帰った方がいいかもしれないと、千景と一緒に帰路へつこうとした時だった。



──…ザブン。



突然頭上から聞こえた奇怪音に、千景と二人で再び上を見上げる。大きな魚が跳ねたような音。けれど、見えるのは魚の影なんかじゃない。どちらかと言えば、私や千景に似たシルエット。ただ、頭から下ってお腹の下辺りから、ぱっくりと二又に別れていた。



「……人間だ」

「え?」

「人間だよ!足がある…間違いねぇ!でも様子がおかしいな…」



千景によると、海に落ちる人間はそう珍しくないが、大抵はすぐに海の上へと引き揚げられるそうだ。でもこの人間は違う。最初はじたばたと手足を動かしていたみたいだけど、ゆっくり、確実に、私たちの方へと沈み続けている。

だんだんと大きくなるその人間の顔が、海にたゆたう黒髪の隙間にちらりと見えた。瞬間、頭の隅に焼き付いている横顔と重なる。気付けば、私は千景の声も聞かずに上へと勢いよく蹴り出していた。



「(あの人だ…!)」



さらさらの黒髪に、真珠のように白い肌。薄暗くなった海の中でも、一度魅せられたその横顔を見間違うはずもない。尚落ち続ける影に追いついて、ふわりとその腕を取った。ゆらりと黒髪が揺れて、その顔が明らかになる。

初めて、見た。



「きれい…」



初めて正面から顔を見たからか、私の胸はまたどうしようもなく鼓動を増す。ぞわぞわと沸き上がってくる興奮にも似た感情は、以前月明かりに照らされた彼を見たときより大きいみたい。こんなの、不思議。どうして─…。



「ばか!何ぼーっとしてんだよ!そいつ、死ぬぞ!」

「しっ…、」

「人間は海の中で息ができないんだから当たり前!」



呆けていた私に変わって、千景がぐいぐいと彼の腕を引っ張って上へ向かい始めた。慌てて私も反対の腕を取って上へと突き進む。だめ、だめ。この人が死ぬなんて…絶対やだ!

やがて海面が見え、やっと彼を空気のあるところへと連れ出すことができた。激しく咳き込んで水を吐き出したものの、彼は意識を戻さない。それどころかやっぱり海面は波立っていて、ひどく私たちを揺らしていた。人魚である私たちでさえ、油断すれば流されてしまいそうだ。幸いすぐそこに砂浜が見えていたので、急いで彼を運んだ。



「千景、どうしよう…目、開かない…!」

「落ち着け!ええと、水は吐き出したんだよな……よし、息はしてる。安心しろ、藍。ちゃんと生きてる」



千景の言葉に、ふにゃりと全身の力が抜けた。よ、よかった…。



「でもどうすっかな…嵐の中で放っとくわけにもいかねぇし…。俺らじゃ他の人間呼んでこれねぇし」



息があるとはいえ、苦しげな彼の表情に胸が締め付けられるように痛くなった。重たく垂れ込めた灰色の雲は、とうとう冷たい雫を落とし始める。元々強かった風も、小さな水滴を小石のような固さに変化させるまでに強さを増した。こんなところに彼を置きっぱなしにしたら、絶対悪化するに違いない。

千景と二人で何か策はないかと考えていると、後ろから声を掛けられた。



「何してる…!」



彼の生存に安堵した体が、瞬間的に強張った。

出掛ける前に聞いたものとは明らかに違う声色。

ゆっくり振り返れば、そこには今までに無いくらい怖い表情をした静雄兄さまが海の中に立っていた。





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