「認めねぇ」
私の言葉を聞いた兄さまの第一声は、とても冷たくて、拒絶の意思を固く持ったものだった。
「お前は人間のことを何も知らないんだ」
「でも、」
「とにかく、これ以上人間に関わるな。それから、しばらく海面から顔を出すな」
兄さまはぴしゃりと言い放って私に背を向けた。これはもう話を聞く耳を持たないと言っているようなものだ。今日のところはここらで退散した方がいいだろう。なんだか今日の兄さまはいつもより怒っているように見える。そして、なんだか、辛そう。
「……失礼します」
「……」
俯いたままそう呟いて、兄さまの部屋を出た。やっぱり今日の兄さまはどこかおかしい。どんなに怒っても、私が部屋を出るときは「次は気を付けろよ」とか、「おやすみ」とか、何かしら声を掛けてくれるのに。
でもそんな変な兄さまを覆い隠すように、また彼の横顔が浮かんできた。あんなに綺麗な人は、私の兄さま以外に見たことがない。儚げで、でも強い存在感があって。そう、彼は一言で言えば「素敵」な人だった。
「(兄さまには禁じられてしまったけれど…また海から出れば会えるかな)」
海中から出ることは即ち、外界に出るのと同じこと。だって私たち人魚はこの海の中が全てだから。私たちの世界は、この海だから。
だから、海の外へ顔を出す人は滅多にいない。私が知っているのは千景くらい。兄さまも、あまり外へは行きたがらない。それでも、私がたまに海面から顔を出すことは許してくれていた。
「兄さまは、お前は人間のことを何も知らないと仰っていたけれど、兄さまは知っているのかな」
私たちとは違い、陸に住む人間。人間には私たちとは違う2本の足がある。あの足でとたとたと走るのだそうだ。私たちには考えられない。私たちはヒレを動かせばあっという間に行きたい場所に行けるけれど、陸ではそうはいかない。人間は地に足を着いて、その足で歩き、時に踊るらしい。そんなの、想像するだけでとっても楽しそうじゃない?
でも人間は私たちのように海の中では踊れない。海の中じゃ歌も歌えないし、お喋りすらできない。それはとっても損をしているように感じる。だって海の中の踊りも素晴らしいの。歌を歌えばみんな応えてくれるのに。
「おーい、藍!」
「千景…」
呼び止められて振り返れば、そこには屈託ない笑顔を浮かべた千景がいた。ぶんぶんと手を振りながらこちらへ近付いてくる。
「幽さんに聞いたよ。なんだか外に顔出して怒られたんだって?」
「ねぇ千景、人間って、私たちにとってどんな存在?」
「なんだよ、藪から棒に」
私の突然の質問に、千景はきょとんと目をぱちくりさせた。そのあとにうーんと首を捻る。
「みんな、あんまいい印象はないみてぇだけど。何でも、昔は俺たちの肉を食って不老不死になろうとしてたらしいし」
「私たちを、食べるの?」
「今はそんなこと無いらしいけどな。そんな古ーい言い伝えのせいか、人魚は人間を嫌ってるのが多い。ま、俺は好きだけどな、人間」
「千景は、どうして人間が好になったんだっけ?」
「一回人間が乗った船を見たことがあるんだけど、それに乗ってた人間たちがすんげぇ楽しそうだったんだよ。歌も踊りも、食い物も俺たちとは全然違ってて、それが新鮮だったんだ」
千景はよく人間のお話を私にしてくれる。そのとき千景は決まって目を輝かせて、どこか憧れのような輝きをその目に宿していた。それは今日も相変わらずみたい。陸での生活って、どんなんなんだろうなあ……と、今は程遠い海面を見上げた。
「おっと、あんまり話し込んでるとお前の兄貴に怒られちまうな。もう遅いし、話の続きはまた明日ってことで」
かつて人間が落としていった帽子の鐔をくいっと上げて、千景はじゃあなと自分の家へ帰って行った。
どうしても兄さまの言葉が引っ掛かる。何も知らない人間のこと、もっと知りたい。
明日は千景からたくさん話を聞こう。そう小さな決心をして、私も自分の部屋へと向かった。