「あーきもちいー」
背中から伝わるほどよい圧力に目を細める。背中の上から、ため息とともに奏の声が落ちてきた。
「もう、ほどほどにしないと身体保たないよ?」
奏が言っているのは、俺とシズちゃんの殺し合いについてだ。入学1ヶ月で最早日常と化したあの忌々しい化け物との対決に、俺も毎回無傷とはいかないわけで。まだ広いパイプを持っているとは言えない俺は、シズちゃんに直接ちょっかいをかけては殺す算段をしていた。
「こんなに傷だらけで…身体もガッチガチに凝り固まってるし」
「まだパルクールに慣れてないんだよ」
奏のマッサージという癒しを感じながら、俺はパルクールの説明を事細かにしてあげた。背中からはふーんとかへえ、とか曖昧な言葉だけが返ってくる。
話聞いてるの、と問えばおしまいだよと背中に湿布を貼られた。
「ねえ、奏」
「なに?」
「キス、してもいい?」
「いいよ」
目を閉じた奏の柔らかな唇に自分の薄い唇を重ね合わせる。しばらくそうしていると、自分の中で何かがムクムクと膨らんでくる。しかし薄目を開けて奏の表情を見ると、その何かは身を潜めてしまう。耐えるような、緊張しているような顔。ぎゅっと目を瞑って頬を赤くしているその顔が、俺の理性を大きくしてしまう。
「(俺の奏。誰にも渡すもんか。特に、あんな化け物なんかに……)」
互いの心臓が聞こえるくらい身を寄せ合って、俺は密かにそんなことを決意する。まったく、人類全てを愛すると公言するには滑稽すぎる気持ちだと思う。こんな醜い独占欲を自分が持つとは考えてもみなかった。
そして、そんな独占欲を掻き乱される事件が起きる。
それは通学途中のこと。
なぜか浮かない表情を浮かべる奏に、疑問を持った。
聞けば、今週は奏が通っている道場の師範が不在らしく。師範代が道場を仕切るということだった。
「私、あの師範代苦手なんだよなあ」
「奏が苦手になるなんて珍しいね」
あはは、と奏は苦笑する。俺は既に携帯を取り出していた。
まあ、結果から言えば俺の予想は的中した。
師範代は、稽古帰りに車で送るだけでは飽き足らず、両親が不在と知るやいなやトイレを貸して欲しいと家の中まで押しかけようとしていた。
それを見越して、奏の両親に連絡をし、もっともらしい理由をつけて早めに帰宅させたのは正解だった。
「おや、奏。送ってもらったのかい?」
ちょうど車から降りてきた二人に、仕事帰りにばったり出くわした奏の父親が話しかける。奏の肩には師範代とやらの手が置かれていた。その光景を見た瞬間、俺は頭の中でそいつを刺す光景を見た。あくまで想像だ。
奏はほっと胸を撫で下ろし、自分の親の元へと駆け寄った。
「あれ、臨也もいたの?どうして……」
「臨也ちゃんが、最近奏の調子が良くないみたいだって教えてくれたのよ。だから今日は早めに帰ろうと思って」
でも道場に行けるくらい元気なのねえ、と母親は安心したように笑った。
しかし父親ともども、目が笑っていない。
「これはこれは先生、わざわざ車で送っていただきありがとうございます」
「いっ、いえ…」
「しかし生徒の肩に手を置くなどと……それに、家の中にも一緒に入ろうとしていたのは私の考え過ぎですか?」
「そ、それはですね……ええと」
「否定の言葉も見つかりませんか?」
しどろもどろになる師範代に対し、父親は冷静に追い詰めていく。なるほど人を追い込むのは余裕と冷静さが大事なのか。当たり前のようなことを目の前で学びながら、俺はひたすらに心の中で渦巻いているものを抑えることに必死だった。
「師範は私の知り合いなもんですから信用していたのですが、残念です」
「お、お父さん、私道場に通うのは辞めたくない!」
「大丈夫だよ、奏。辞めるのはあちらの先生だから。後ほど、そちらの師範に連絡させていただきます。その他にも、しかるべき所に連絡しないといけませんね」
わかったらお引き取りを。そう言い放って、父親はさっさと奏とともに家の中へ入ってしまった。母親は、師範代にお辞儀をしようとして、あら、お辞儀をする価値もありませんでしたと朗らかに微笑んで、俺を引っ張って家の中へと入った。
「他に変なことはされなかったかい?」
「うん、大丈夫。しつこくて断り切れなかったの…ごめんなさい」
「奏が謝ることじゃないわ。さっそくご飯用意するわね。着替えてらっしゃい。臨也ちゃんもご一緒にどうぞ」
先ほどとは打って変わって柔らかな表情を浮かべる奏の両親に、俺は依然感心しながらお言葉に甘えて家に上がった。靴を脱ぐと、奏がちょいちょいと上を指さす。「私の部屋に来い」という合図だ。
部屋に入るなり、奏は俺に向き直った。
「ねぇ、どうしてお父さんとお母さんにあんな嘘ついたの?」
「あの師範代が前から女性の生徒に手を出してるって聞いたからさ。なんとなく嫌な予感がして早めに帰ってもらったんだ」
「ふぅん。臨也はなんでもお見通しなんだね」
「そんなことないよ。根拠のあるデータを基に推測しただけ。ねえ、それよりさ。ほんとにあいつに変なこと、されてないの?」
ベッドの上に座って奏は視線をさまよわせたあと、少しバツが悪そうに呟いた。
「実は…えーと、私の考えすぎかもしれないけど、組んでるときに胸とか、お尻とか、触られてた……かも?でっ、でも組むと自然と身体くっつくしほんとに私の考えすぎかもしれなっ、」
気付けば、俺は奏をベッドの上に組み敷いていた。あいつが、触った?俺でもまだ触れていない奏の部分に、あいつが?
さっきから渦巻いているどろどろしたものが体から染み出しているような感覚だ。たぶん俺の頭も心とかいうものも、今はいろんな欲と嫉妬で汚く渦巻いているんだろう。
驚いた奏の表情すら、今は押しとどめる要素にはならない。
俺は欲望のままに奏に口づけた。強ばっていた体から力が抜けるのを確かめて、押さえつけていた手を外し、彼女のボディラインをなぞる。途端にまた強ばり始める体が愛しくてたまらない。くびれを上ってさらにその上の膨らみに手をかけると同時に、奏の手が俺の胸を押した。
「臨也、急にどうしたの……」
その問いには答えず、今度はその首筋に唇を落とす。おそらくパニック状態であろう奏は、今度は足もバタつかせ始めた。首筋に赤いうっ血痕を残して僅かにでも満足感を得た俺は、ようやく奏の体から手を離す。
「ごめん」
「……理由を聞かせて」
「嫉妬。独占欲。以上」
今更理性が本能に勝ってきた俺は、手短に心内事情を話した。
しばらく奏は呆気にとられていたように目をぱちくりしていたが、やがてぷっと小さく吹き出した。
「あはは、そっか、嫉妬かあ。いやあ、うん。可愛いね、臨也」
「はあ?何言ってるんだよ」
「嫉妬されたのって初めてだけど、嬉しいね。ありがとう、臨也」
「…許してくれるの」
「うん」
「今度、続きしたいって言っても?」
「う……それは、うーん、ちゃんとお互い準備ができてから、ね?」
奏の言う準備がひどく曖昧で、でも俺は問い詰めることはできなかった。嫉妬と独占欲の醜い塊をぶつけられても嬉しいと笑って受け入れてくれる奏は、俺にとってどんなに大切な存在か。誰も押し測れるものではないだろう。
下の階からご飯ができたと呼ばれるまで、俺たちはずっと手を繋いでいた。