「(そういえば、発表の準備はどこまで進んだんだろう)」
家庭科室で糸をプツンと切るのと同時に、ふとそんなことを考えた。夏休みに入る前に、顧問から文化祭の発表準備をしろと言われていたからだ。
私の所属している手芸部は生物部と同じくらい活動頻度が低い。さらに発表で使われるクッションやタペストリーなどのハンドメイドは自宅で作れることも加わって、夏休みの活動は皆無に等しかった。だからこそマイルちゃんとクルリちゃんの子守りが可能になっていたのだけれど。
そんな自分がなぜ家庭科室にいるのか。それは作品に使う布が足りなくなった為だ。明日始業式を終えた後には各自作品を提出することになっているため、布の補充とどうせなら仕上げてしまおうと、風の通る窓際で針仕事に勤しんでいた。
「(少し様子を見に行ってみようかな)」
臨也は今日も学校に来ているはずだから、何か手伝えることがあるかもしれない。生物部の発表準備を臨也一人に任せてしまったため、少し負い目を感じていた私は、出来上がった作品を一足先に提出用の箱に入れ、家庭科室を出た。
階段を下りて廊下をまっすぐ歩いていると、キャンパスを抱えた美術部員とすれ違った。絵の具の匂いに鼻をこする。うええ、申し訳ないけれど、絵の具の匂いは苦手だ。
やがて見えてきた生物室は、なんだか騒がしい。臨也の声と、もう一つ。これは岸谷くんの声?
「僕は残念でならないよ」
「賭博をしていたことに関して、君の正義感ならともかく歪んだ恋愛観のために説教される筋合いはないね」
「臨也?岸谷くん?」
喧嘩、というほどでもないのか。2人は極々穏やかに言い合っていた。なるほど頭のいい人が喧嘩をすると静かなんだな、なんて場違いなことを考える。岸谷くんが言うには、夏休みの間、臨也がこの教室を使って野球賭博の元締めをしていたらしい。
ごめん、私野球賭博って何かわからないんだけど。
「要するに未成年では禁じられている賭け事を、学校や僕らに内緒でやってたってことさ」
「ふぅん。一応聞くけど、それって悪いことだよね」
「もちろん!ああ、自分が誘って一緒に創部した友人がこんなことをしていたなんて!知られたら彼女に嫌われる要素の一つになる!せっかく夏休みの間、甲斐甲斐しく植物の世話をして、学生らしく部活動に勤しんでいると思わせていたのに!」
臨也が悪いことをしていたのもそうだけど、岸谷くんも岸谷くんだ。自分が彼女を上手く騙しているのは嫌われる要素の一つなんじゃないのかな、と考えたが口にはしなかった。
岸谷くんは変わった恋愛観を持っている。けれどそれが岸谷くんなんだ。私は特に疑問も興味も持たずに彼の話を聞いていた。
そんな時、第三者の声が入り口から聞こえてきた。
「折原ぁ…金貸してくれよぉ」
突然現れた第三者は奈倉くんと言うらしい。奈倉くんは臨也と二言三言話をしたと思うと、ナイフを取り出した。さすがの私もぎょっとする。学校に、ナイフ。怖い。直感的にそう思ったのと、臨也が私を背中に隠したのは同時だった。
それからは目にも留まらぬスピードで物事は展開した。いつの間にか岸谷くんが床に倒れていて、その白いワイシャツは赤く染まっていた。
「これで…すこしは、ヒーローみたいに……僕の大好きな人にも……」
刺されているというのに、その口はぺらぺらとはいかないまでも動き続けている。呆気にとられた私の脳内に浮かんだのは止血の二文字。慌てて鞄からハンカチを取り出して、傷と思われる場所に置く。溢れる血が広範囲を赤色に変えているために、どこが傷口かわからない。おたおたする私に変わって、岸谷くんはありがとう、と言ってから自分で手当てを始めた。
そんな時だ。
「俺が刺したことにしてくれないか?」
臨也の言葉に、岸谷くんと一緒に目を丸くする。言ってる意味が、わからない。なんで、刺したのは奈倉くんなのに、なんで、わるいのは奈倉くんなのにどうして臨也が。どうして。
「まあ、いいけど」
臨也を見つめていた私はぐるんと顔を岸谷くんに向けた。いいの?!岸谷くんは、臨也を犯人にするつもりだ!被害者である岸谷くんが、自分を刺したのは折原臨也ですと言ってしまえば、誰もそれを疑わない。もし臨也が犯人の枠に収まってしまったら?血を出すような事件だ。もしかしたら退学になるかもしれない、いや中学は義務教育だから停学?少年院?臨也が?刺してないのに?
「奏」
「おかしいよ、そんなの、おかしい」
「奏、落ち着いて。俺は大丈夫。自分で言ったことには責任取るさ。奏、俺が刺したんだ。先生や警察に聞かれたらそう言うんだよ。わかったね?」
まるで子供に言い聞かせるように、優しい声で臨也は言った。
「いいかい、岸谷新羅を、折原臨也が刺して逃げた。『そういうこと』になるんだ」
それは、私にとって魔法の言葉のようで。そう言われてしまえば、すでにそのように捻じ曲げられた事実を、私は受け入れるしかない。臨也が提案し、岸谷くんはその要求を受け入れた。つまり事実は『そういうこと』になったのだと思うと、不思議と心は落ち着いた。
動揺の少なくなった私の目を見て臨也は微笑むと、勢い良くガラスを割って逃走した。