零れ落ちた鐘の名を、例えば涙と名付ければ
前の席の女子が、最近気になって気になって仕方がない。
謙也にそれを言ったら、なにか思い出したような表情をして、けれど聞かなかったふりをされた。
「なまえ! 購買行かへん?」
「あ、行く! ちょっと待っててー」
ぼうっとしながらも、彼女の声だけは耳に入ってくる。綺麗な声やなあ、と心の中で静かにつぶやく。
前の席の椅子ががたり、と音を立てた。今は昼休みが始まったばかり。謙也は委員会の用があって教室にはいない。おかげで俺は一人で弁当を食うことになってしまった。そんな俺が考えるのは、音を立てた椅子から立ち上がり、廊下で待っている友人の元へと小走りで向かう彼女のことだけだ。
購買で何買うんやろ、そういやいっつも購買のパンを買って教室で食べとったはずや。確かそのパンはチョコドーナッツだとか、ホイップサンドだとか、女の子らしく甘いものばかりやったな、だとか。
他人からすればお前ストーカーじゃねえの、と突っ込まれそうなことばかり。
せやかてしゃーない。気になるもんは気になんねん。
弁当ももう少しで食べ終わる。俺は未だ購買という戦場で戦っているせいか空席なままの、その前の席を眺めていた。
廊下へと向かう彼女の姿はさながら天使が跳ねているかのような、そんな錯覚をさせるほどかわいかった。少しくせっ毛で肩まである黒く綺麗な髪が揺れては跳ね、それはもうとてつもない清潔感を漂わせていた。どタイプや。
ついに最後のおかずだったほうれん草のおひたしを食べ終えると、俺は弁当箱を片付け始めた。謙也はまだ委員会なのだろうか、もう昼休みも終盤だ。多分、アイツは最後の5分で戻ってきて弁当食えへんやん! なんてしょーもないことをいうのだろう。部室で食べてたら注意せな。
くだらないそんなことへと思考がシフトし始めた頃、例の彼女が教室へと戻ってきた。その手にパンはない。経過時間からして、友人と一緒にどこかで食べてきたのだろう。けれど、彼女の手にはパンの代わりに野菜ジュースが握られていた。
健康的なんやなあ、ますますタイプや。と、思いつつ俺も野菜ジュースは毎日食後に飲むようにしている。
弁当箱を鞄にしまうと、俺はいつもお世話になっている某メーカーの野菜ジュースを取り出そうとした。
「あ」
……あかん、忘れてきた。完璧な食後が台無しや。
よりによってそんな優越感(彼女も俺がいつもお世話になっているのと同じメーカーの野菜ジュースを飲んでいたからだろう)を覚えた日に忘れてくるとは。なんとも不運だ。
仕方ない、いつもは野菜ジュースを飲んで過ごす昼休みの終盤も、今日は毒草図鑑でも読んで過ごすことにしよう。
「あの」
しっかし本当にトリカブトは綺麗な花やな、この紫がなんとも――
「し、白石くん」
「へっ、え?」
トリカブトが綺麗だとか、そんなことを思っている場合ではなかった。
名前を呼ばれ毒草図鑑から顔を上げれば、そこには大好きな彼女の顔があった。
「な、ななななんやみょうじさん。どないしたん」
どもった。恥ずかしい。何が聖書や。こんなん聖書にあらへん。
そんな俺を見て、彼女はくしゃりと笑った。天使おったで、捕まえてもええかな。ええよな。そないな勇気あらへんけど。
「白石くん、今日は野菜ジュース飲んでないんやね」
きょとん、と。俺はそんな以外な言葉に文字通りきょとんとした状態で彼女のことを見つめた。なんでみょうじさん、俺が毎日野菜ジュース飲んどること知っとるんや。
俺のことをよく見ているか、もしくは謙也とかテニス部の奴らぐらいしか知らない俺の日課を、なんで。
「あー、たまたま忘れてしもてん。うっかりミスや」
「ふふっ、毎日飲んでるみたいだったから珍しいなぁと思って。そっか、うっかりミスなんや」
「せやで。初めてや、野菜ジュース飲まん昼休みなんて」
もしかすると彼女は前者なのだろうか。俺のことをいつも見ていてくれたのだろうか。
そういえばみょうじさんと会話するのは、これで何回目だっただろうか。まだ片手で数えられるくらいしか会話できていない気がする。
話し方も、声も、ベタベタと纏わりつくようなものではなく落ち着いていて、会話していてすごくリラックスできる。そんなところが彼女の魅力でもあるのだが。
「よかったら私の野菜ジュース、飲む?」
「えっ」
「まだ開けてへんし、日課をせぇへんのってその日のテンションにも関わってくると思うたから」
予想外だった。そんなことを言われるとは思ってもみなかった。もちろん、そりゃあ貰いたい。(日課だからとかではなく、彼女からもらえるものだからだ)
けれど、本当にいいのだろうか。これは彼女の野菜ジュースであって、そんな都合よく事が動いてくれるものだろうか。
「ほんまに? ええの?」
「ええよー、もちろんプレゼントやからお金は取らんよ」
「せやけどなんや申し訳ないで」
彼女は、ほんとにええんやって、貰ろてや! と言って、俺に野菜ジュースを差し出してきた。
「ほな、ありがたく受け取らせてもらうわ」
俺はそう言って彼女の手から野菜ジュースを受け取ると、付属のストローを挿して一口、その野菜ジュースを飲んだ。うん、やっぱりこのメーカーのはうまい。彼女からもらったからというのもあるかもしれないけれど。
「あんな、白石くん」
「ん?」
「毒草聖書、執筆頑張ってな。私大ファンやねん」
わお、これも予想外や。彼女が、なにかない限りはいつも休み時間に本を読んでいるほどの読書好きというのも、もちろん知っていたけれど。校内新聞の、俺の拙い小説まで読んでくれていて、あまつさえ大ファンだなんて、もう教室でエクスタシーと叫びながら全裸になってもいくらいには嬉しい。めっちゃ嬉しい。
「そんな大好きな小説書いてくれとる白石くんに、何かしたくて」
「おん」
「せやからその野菜ジュースは、せめてものお礼と、頑張ってのプレゼントっちゅーことで」
今度はふわり、と。そう言って微笑んだ彼女は殺人的に可愛かった。俺の蔵ノ介くんにもクリティカルエクスタシーや。……なんや、クリティカルエクスタシーて。
とにかく、その笑顔がかわいくてかわいくて。俺までつられて笑顔になってしまう。
「ありがとな、みょうじさん。おかげで頑張れそうや」
あ、顔が真っ赤になっとる。かわええ。
つられ笑顔でお礼をすると、彼女はそりゃあもうりんごみたいに顔を真っ赤にしていた。
「ど、どういたしまし、て」
「こちらこそ、ほんまにありがとな」
彼女は俺の顔を数秒見ると、さらに顔を赤くして俯いてしまった。なんやほんまかわええ。
抱きしめたい。そんな衝動に駆られつつもなんとか理性で押さえ込んだ。せやけど、可愛すぎや。
「その、えっと、白石くん」
「なんや? みょうじさん」
「……私な、白石くんのこと」
「あー、もう委員会疲れたわ」
みょうじさんはその俯いた状態のまま、俺を呼んだ。なにか言いたげなその呼びかけに、俺は内心ドキドキとしながらも返事を返した。
ほんの少し戸惑った後、意を決したらしい彼女が顔を少し上げて何か言いかけたというのに。
突然の謙也。
空気読め。空気読めやこのヘタレスター。空気読め。
「あ、忍足くんおかえり」
「おーう、みょうじさん。どないしたん、顔真っ赤やで」
指摘されたのが恥ずかしいらしく、なんでもないで、と必死に答える彼女の姿はとても愛らしかった。
というか、え、謙也はみょうじさんと仲ええんか。なんでこないに親しげなんや。そんな疑問が浮かんでしまったからには、聞いてみる他ない。昼休みはもう2分ほどしか残されていない。
案の定弁当食えへんかった、と文句を言う謙也に、問いただすことにした。
「謙也、みょうじさんと仲ええんか?」
「仲ええ……っちゅーか、なんやろ、なんちゅーか、なあ、みょうじさん」
「え、う、うん。仲はええよ。ええ、けど」
「けど、なんや?」
もやもやとした気持ちが募る。もしもこれでこの二人が付き合ってました! なんて展開になったら俺はもう穴を掘って埋まるしか無い。俺のテンションはそりゃもう完全にMAXだったわけだから、余計に埋まりたくなる。自惚れた恥ずかしさとショックでだ。
続きの言葉を催促するも、二人は黙ったままだ。なんや、もしかするとほんまに俺の思った通りなんか。
「あー、あんな白石」
「忍足くん……! い、言わんといて!」
「せやけど、このままやったら誤解させてまうで」
誤解って、なんや。どういう誤解や。
「……いや、言いたくないんやったら無理には言わんでええよ」
傷つきたくないから、だ。自分が傷つきたくないというただそれだけの意味合いを含めてそう言い放つ。
けれど、彼女はどこか泣きそうな顔で謙也を見ると、小さく覚悟を決めたように頷いた。
ああ、なんや。埋まろ。俺は今から埋まるで、穴に。悲しくなってきた。
「あんな白石くん」
「ほんまに、無理はせんでええねん」
「無理やない、もしこのまま白石くんに誤解させてもうたら、そっちのほうが無理や。やっと白石くんと話せたんに、そないな誤解させたないねん」
やっと、俺と話せた? どういうことや。
「私な、ずっと、二年生の時から白石くんのこと気になっててん。で、二年生のとき同じクラスで、隣の席で、白石くんと一番仲のええ忍足くんに、その、白石くんのこといろいろ聞いててん」
気がつけば時計の針は昼休み終了の1分前を指している。
けれど、俺の心臓はさっきとは打って変わって、数分前のようにドキドキと早鐘を打ち続けている。
埋まらんくても、ええんやろか。これは自惚れててもええんやろか。
もしかしたら謙也とみょうじさんが付き合うとるかもしれん、なんて考えは抹消してしまってもええんやろか。
「せやから野菜ジュースのことかて、ずーっと知っててん。で、機会があれば差し入れしたいなって、そう思うとったんや」
「お、ん」
「えっと、つまりその、整理できてへんけど、その」
謙也はこんな時に限って空気を読んだらしく、自分の席(俺から斜め後ろの席である)に戻ってひたすらペン回しをしている。
教室のドアが空き、教卓には次の授業である国語の先生が立って授業の準備をし始めている。
本鈴が、もうすぐ鳴る。
「私、白石くんのことが大好きです」
キンコンカンコン、と本鈴と被ってしまったその言葉は、しかしはっきりと俺の耳へと聞こえてきた。
起立、と、日直の声が教室に響き、俺と彼女もその声に従って立ち上がる。礼をして、着席。
けれど彼女は控えめに俺を振り返っている。俺はというと、あまりの嬉しさから言葉が出ないせいで、そんな彼女に何の言葉もかけてあげられていなかった。
暫くして、ようやく返事をしなければ、という考えに至った。
そんなの決まっている。
「なぁ、みょうじさん」
俺があまりにも何も言わないせいか、すっかり落ち込んでしまったらしく、前を向いている彼女に小さく声を掛けた。
「な、なな、なんで、しょう」
うっすらと涙目なその目を見て、俺がどれだけ馬鹿なのかを思い知らされた。早く返事をすれば、涙目になんてさせなかったのに。
「泣かんといて、俺もみょうじさんの事大好きやねん」
そう言うと、彼女は大きく目を見開いた。涙目だったその目から、溜まっていた涙がほろり、と頬を伝っていったのが見えた。
「俺と、付き合おうてください」
周りには聞こえないように、そう小さくつぶやくと、彼女はその涙目で微笑んで、こちらこそよろしゅう、と呟いた。
そうして、彼女は恥ずかしそうにまた前を向き直すと、机に突っ伏してしまった。多分これは、照れてるんだと思う。抱きしめたい。
……次の鐘が鳴ったら、とりあえずみょうじさんにはちゃんと自分の気持を伝えよう。
(うわ、やっとくっついたであの二人。遅いっちゅーねんあほ。っちゅーか、斜め後ろからじゃ丸見えやねん、後でからかったろ)
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なんですかこれは、タイトルとか特に何ですかこれは。眠いからです。眠いからこんな文章になっているんです。ちょっと白石くんの後ろの席になってくる。
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