まるで夢のなかみたいで、すべての感覚が鈍る。ゆらゆらと寄せては返す波のように、とても心地いい。あるべきはずの重力を感じさせなくする眩しいこの波、苦しくない海は、きっと気だろうか。ボクはその上のプカプカ浮いているのか、沈んでいるのかわからないが、なんだかとても、優しい気持ち。徐々に光が弱くなり、薄目を開けてみる。真っ白な何もないその空間のずっと下の方に、誰かの気配を感じてそちらを見やった。

「……キミは、だれ?」

話しかけられた人は、女の子に見えた。ボクと同じくらいの背丈をした、萌える葉のような髪で、土のような赤茶の目をした女の子。伸ばされたその手をとって、ボクは彼女と同じところに降り立つ。甘えるような高い声で、少女は名乗る。

「わたしは『紡ぎ手』。この世界を、ある意味作った人間。神とも言われる存在」
「紡ぎ手……」
「エスコニと呼ぶべき? それとも、ドリラと呼ぶべき?」

エスコニ。エナトがボクの中に戻ってきたというなら、そのほうがふさわしいんだろう。けれど、今はどうしてか、エナトの気配を感じない。とはいっても、エスコニもドリラも、名前というただの記号に違いない。そう思って「どちらでも、構わない」と告げた。

「そう。……では、ドリラ」

どこかソリスに似た目元をしたその少女、『紡ぎ手』は、凛とした声でボクの名を呼ぶ。たったそれだけのことなのに、ボクはどきりとする。さっきまでどこか親しげにボクに話しかけていたのに。周りの空気をぴりり、とさせるようなその声に、言い方に驚く。……神々しい、とでも言うべきか。

「あなたの願いは、何?」
「ボクの、願いは」

すうっと、息を吸う。もう迷いはない。この選択は、きっと間違いじゃない。

「ボクを含むこれまでの巫女の記憶を、生きとし生けるもの全ての記憶から、消してください」

紡ぎ手は少し驚いたような顔をして、こちらを見る。ボクの顔に迷いがないのを確認してから、ボクに似た微笑みを浮かべて言う。……わかった。そう言って両手を、何か本を持つように広げた。と、そこにキラキラと光が無数に集まって、本を形作った。見覚えがあるその本。「そうね、君も見たことがあるでしょう。黙示録よ」その上に乗せられた羽ペンで、黙示録のページにさらさらと何かを書いてゆく。

「どうして、ここに……」
「ふふ、秘密。さあ、これであなたの願いはかなった。もっとも、今貴方が確認する事はできないけれど」

ぱたん、とそれを閉じると、羽ペンと一緒にまたそれは、まるで部屋に溶けるように消えてしまった。

「貴方にして欲しいことは二つ。ひとつは、世界樹が貯めた気……この世界にあったことを蓄積した『データ』を、この世界の外に出すこと。もうひとつは、世界樹の核となること」

こくり、とうなづく。

「まずは、『おつかい』ね。準備は私がするし、ナビゲートも私がする。そしたら、ある程度はこの世界の異常は解決するはず。ここまでで、何か質問は?」
「……貴方は、なにものなの」
「それは、貴方は何をしているの? 貴方が全てやればいいじゃん、ってこと? 世界を創ったのなら、そこまで責任を取れということ?」
「……」

そうだね。と彼女は微笑みを崩さずに言う。その微笑んだ目が全く表情を変えなくてどきりとする。なんて、なんて深い色をしているんだろう。

「私の体は、ここにはない。今の私ができることは、この世界をただ見て記憶することと、この世界を巫女の命に従って書き換えること。あとは、何もできない。たまにこの世界をみに遊びに行くことはあるけれど、それでも、誰にも関わらないようにしなきゃ面倒なことになるし」

さあ、じゃあ早速お仕事をはじめて頂戴。その声が終るや否や、ボクは知らない場所に立っていた。





――さて、それから、幾つの年が経過しただろうか。

やっとこの世界に帰ってきた。世界樹の情報を世界の外に届けるという重大な『おつかい』が終わり、いよいよ世界樹の核となる。そんな日がやってくることになった。そう説明すれば簡単だが、そんなに簡単なことではなかったし。これからのことも、簡単じゃないんだろう。と、あるはずのない人の気配を感じて、ボクは思わず振り返った。

「ドリラ?」
「そうだけれど……」

長い黒髪、銀色の目の少女。……直感だった。

「まさか、ルーテル?」
「そう」

聞き覚えのある声で、彼女は続ける。「あなたをずっと見ていたの。『ここ』からは、世界を見つめることができるから。私と同じ魂をもった存在が、どうやって生きているのか。そしてモンドを心に住まわせた貴方が、どんなふうに『巫女』をしているのか見ていたの。……そしたら、どうしても辛くて、何回か話しかけてしまって」

「あの時……ソリスに術を掛けてもらうときに、ボクに謝ってきたのは、キミ?」
「そう。どうしても、……耐えられなくなって」
「っていうか、キミはどうしてここにいるの!? キミの魂はもう、ラルさんのものでしょ?」
「気の浄化機能は、魂そのものにあるわけじゃないわ。あなたが不在の間、この世界を浄化するのは私の役割。それにまだ、わたしは願いを叶えてない。だから彼女も、私を追い出すわけにはいかなかった」

よくわからない話だが、彼女がここにいることは変えようのない事実だ。

「そしてその願いは、あなたが帰ってくるまで、ずっと保留にしていたの」
「ボク?」

「ねえ。貴方は、私の魂を持つ彼の元に、帰りたくはない?」

思いもよらない質問に戸惑うボクを、彼女はじっと見つめる。同じ色の目が、まっすぐ真剣だ。……冗談じゃないんだろう。ボクはしずかに、頷いた。

「じゃあ、私が帰してあげる。あの場所へ」

と、そこに凛とした声が響いた。ルーテルとはまた違う意味で、凛とした少女然とした声。

「それは、ちょっと具合が悪い」
「……紡ぎ手。もちろんそのままの願いだとダメ。それはわかってる。なら、あの竜族が掛けた神術にずっと耐えられる体を与えるのはどう? それなら、世界樹が木の形である必要はなくなる」
「それなら、いいけれど。ほんとうに、その願いでいい?」

こくり、と頷いたルーテルの目をみて、紡ぎ手はそっと、あの日みたいに手を差し出す。現れたキラキラ輝く黙示録に、羽ペンを滑らせ――……。





(何か『大切なもの』を、ここにおいてきた気がする)

旅装束をまとった青年が、そっとフードを下ろして世界樹を見上げる。青い髪、青い目。青年は『光』、その名の響きは『ラル』という。考えても仕方ないことと考えたのか、ため息を付いてから、同行者に声を掛ける。

「なあ、オルフ! 土ってどんだけ集めればいいんだ?」
「そうですね……その袋に8割程度お願いします」

返事を返したのは、鴇色の髪に薄ぶどうの目をした背の高い青年だった。年はラルとあまり変わらなく見えるが、年齢は彼の二つ上。尖った耳と、神術を扱う高い能力、そして長い寿命をもった、エルスとかいう同族のチャラチャラした男に師事している、竜族の血を継ぐ者。2年ほど前まで霧に閉ざされ、高い山々に覆われ誰にも発見されずにあったこの廃墟の街、そして伝説の『世界樹』に似てることからその名をそのまま名付けられたこの大樹を研究してる男である。
それにしても、怠い。どうしようもなく、怠い。

「っはー、ノースも連れてくりゃよかった……。あとラッツも、最近引きこもりっぱなしだしな……」
「おや、力仕事を女性や子供にさせる気ですか? ひどい男ですね」
「うるせえよ、どうせ神術で運ぶくせに。それにノースだって、もう子供じゃねえだろ。じゃあエルスは?」
「そのまま帰ってこなかったら困ります」
「ペットか何かか、あいつは」

ノース。数年前まで少女のような姿をしていたのに、身長が一気に伸びはじめ、いつか決して低いわけではないラルの背も抜かすのではないかと、彼はひやひやしているのだった。
そしてラッツ。最近どんどん背を伸ばしたかとおもったら、神器具と呼ばれる機械の新しい可能性を発見したとかなんとか、琥珀色の目を輝かせ顔を汚したまま俺に話してきたけれど、何を言っているのかさっぱりわからなかった。それがすごい発見らしく、研究チームを組んであれこれ研究しているらしい。……いや、よくわからない。

ふう、とため息をついて、土を取りやすそうなところはないか、とふらふらとあたりを歩き回る。
澄んだ空気が、俺の体を包み込む。何度訪れても、ここはいい場所だ。心が休まる。それでも、俺はここが苦手だ。しんと静まり返ったここは、人間が来ていい場所とは思えない、ということも一つの理由。そしてもう一つは、……ここに、何か大切なものを忘れたような気がずっとしているからだ。そんなことをぼんやり考えていたからだろうか。何かに躓いて、盛大にこけたのは。

「……ってうあッ!?」

何につまずいたのかを確認した俺は、情けない声を上げて叫んだ。
……人だ。黒髪の女が、木にもたれかけて眠っていた。

「ん……?」

細い体は女だが、シャツとリボン、七分に折ったズボンにブーツ、キャスケット帽は明らかに男性もの。でも長い黒髪も、同じ色のまつげも、完全に女だった。ついでに言うと、いい意味で中性的で結構可愛い。それが、俺が蹴飛ばしたせいかしらないが、わずかに身じろいで。俺はドキドキしながら、もう一度、名も知らぬ彼女のもとに近づいた。

「……、あれ」
(げっ、やっぱり起こした!)

声変わりを済ませてない少年みたいな、男とも女ともつかないような声で彼女はそう呟いて、俺をまじまじと見つめた。……銀色の目。吸い込まれそうなくらい透き通った目。とんでもない状況だというのに、それから目が離せない。その目がみるみる潤って、涙が溢れていくさまをただ見ていた。だが、見ているだけ、というわけにはいかなかった。

「って、おいなんだお前っ、なんで泣いて……」
「ラルさん、」
「は……っ?」

思わず呼ばれた名前。その響きにどこか懐かしいものを覚え、尋ねる。「悪い、俺人の顔と名前覚えるの苦手で、お前が誰かわかんねえんだけど……どっかであったこととか、あったっけ……?」
少女はぶんぶんと頭をふって言う。

「いいの、そう、『初対面』だから。ボクがおかしいだけ、だから」
「……よくわかんねえけど、お前が一方的に、俺のこと知ってるってことか?」
「そう、そうなの」
「てかお前、名前は?」

我ながら馬鹿みたいな話し方である。断っておくが、俺は別に敬語が使えない男ではない。
少女はふふふ、と泣きながらきれいに笑った。

「そうだね……『真白』。ボクは、『真白』だよ」

古代の言葉、今は神術の詠唱時にしか使わない、通称エヴォ語。その言葉で『真っ白であること・純粋、無垢であること』を示す言葉を、少女は発音した。
――その音の響きは、『エスコニ』という。





黙示録。過去から未来を書いた、分厚い図書。
その二千七百五十一頁以降には、未だなんの文字も書かれていない。

「その真っ白なページを、どんな文字で埋めさせてくれるのかしら?」

誰に言うでなく呟いた紡ぎ手は楽しげに微笑んで、その黙示録を霧散させた。

title 黙示録 第二千七百五十一頁
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