「ねえ、せんせ」
4月1日。世間は全体的にエイプリルフールで、誰も傷つけない楽しい嘘が許される1日とされている。そして丁度この日になると計ったみたいに桜が満開になり、桜の木の近くに窓があるこの教室は、それを開けているとひらひらと舞いこみそうになる。……そうになる、だけで、実際はかなり強い風が吹かない限り、舞いこまないのだけれど。
それでも手を伸ばせば花びらを掴むことができるため、新学期にこのクラスになった男子生徒などは、よくどれだけ花びらを掴めるか、なんていう子供じみた遊びに興ずるのが、一種の伝統のようなものになっている。
兎に角、そんな4月1日の夕方に、3年1組の教室の、左から3番目、前から1番目の席に腰かけたスーツ姿の『異物』は、やや遠いようで近い、教卓に立った『大人』に話しかけていた。
「……せんせ、好きって言ってよ」
澄んだ声だった。出来上がり切っているとは言えない娘の声だった。
聞く人によっては何の感情も抱いていないように思えるくらいの、そんな平坦な声だった。表情もおんなじだった。無邪気に笑っているみたいだったけれど、目だけは不気味なくらい何の表情も映していなかった。
「せんせ。私せんせの生徒じゃあなくなったよ。今日、完全に。だから、『好き』って嘘吐いて。」
頭の中でまとめることも出来ないままに垂れ流される言葉を受けた『大人』、つまり『せんせ』は、それを聞いても何も言わずに、ただじっと押し黙ったままだ。こちらの表情も柔らかく、慈愛に満ちた読めない顔をしていた。ミステリアスで、クラスで素敵だと言われていた表情だった。
その表情のまま、『せんせ』は沈黙を守った。
『せんせ』の頭上にある時計の長くて細い針が、何周したのかはわからない。彼女はただその沈黙の間ずっと、ずっと、『せんせ』を見つめていたから。
耳が痛くなるくらい、静かだった。花を散らす風の音も聞こえない。窓の外では、たしかに風が吹いて、今も花びらが散っているのに。まるでこの空間だけ世界と切り離されたみたいだった。
人形のようにおし黙ったままの『せんせ』に何とか言ってほしくなったのか、彼女は「せんせ」と、今度はほんの少し焦った様な声をあげた。そして、(負けた)と言うように、彼女は俯いた。
先ほどまで結んでいたと思われる、背中に届く長い髪は、主の表情を隠すように垂る。邪魔にしか思えないが、彼女は髪の思うが儘にさせていた。
その髪が完全に垂れ落ちるのが先か、『せんせ』が口を開くのが先か。兎に角、
「言わないよ」
という声が、静まり返った教室に響いた。
「この気持ちに嘘なんか吐きたくないよ」
風の音が聞こえる。
窓を桜色が埋め尽くす。
それでもやっぱり、『せんせ』は、慈愛に満ちた読めない顔をしていた。
2015/04/01 白
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