『どうか。忘れないで』

少女はそっと、目を閉じ、手を組んだ。

『私のことを』
『ボクのことを』

少しずつ人間ではなくなっていく思考と身体。
薄れていくのか濃くなっていくのかわからない「恐怖」。
……「私」が、「ボク」が、その自我から手を離したとき、そこに残るのは何だろう。

そして、「光」が自分たちを照らさなくなったら。
そこに残るのは何だろう。

「――でも、『彼女』はそれを選んだんだ」

桃色の髪をした、もう一人の「神の代行者」に闇夜を切り取ったような黒髪が言う。「『彼女』は自分のために、自分のエゴで、それを選んだんだ。それが正しいかどうかなんてもう、考える必要もないことだけれど」何度も血に触れたその手を気づかれないように握り締める。片方の手のひらには刺さらないが、もう片方の手のひらには爪が突き刺さる。どうして刺さるのか。それは生きているから、爪が伸びるから。……どうして伸びるのか? 黒髪は頭の隅で自問した。答えはない。

「そして、二人は再会したけれど、彼は『彼女』に気づかなかった。そりゃあそうだよね。他人なんだもん。でも二人はまた別の人間として愛し合い、養子を二人もらって、幸せに暮らしたんだ」

でも彼は死んだ。彼の永遠の期限は短かったから。

「『彼女』は他人を憎めなかった。『彼女』は自分の選択を呪った。自分に与えられた永遠すら呪うことはできなかった。だって、それは自分が望んだことだったからね。……まあ、この話はどうでもいい。ボクが言いたいのはね、モモ」

残される者はね、とても辛いってことさ。

「ねえ伊澄。それは、」
「……ふふ。これはね。ただの御伽噺。でも、それをキミがどう受け取るのかは、キミの自由さ」

そう言って椅子から少し腰を浮かせ、冷たい左手をそっと暖かな少女の頬に添える。その動作はどこまでも自然だった。驚いた少女の緑の目が、伊澄と呼ばれた黒髪の目を捉える。銀の右目、そして少女の顔に少しの緑を添えてそのまま移し返す、奥の見えない左目。どちらの目も確実にこちらを見ているのに、どこを見ているのかわからないほどに透き通っていた。その様は少し、

「怖い?」

考えを読み取ったかのように言われたその言葉に思わずはっとした。相変わらず伊澄の顔には微笑があったし、それはごく自然だった。「……すこし」そっとあごまで手を滑らせた。その動作が持つ感情が読めない。何を考えているのかわからない。深海を見ているようだ。その奥をいくら見ても、目に写るのは自分の目でしかない。

「もしこの話が、これから先キミが道を決めるとき邪魔になるようだったら、どうかそのときは、忘れてほしい」
「……伊澄って、意地悪だね」
「知ってる」

手を離して腰を下ろし、流れるような動作で紅茶のカップに手を添える。が、飲まずにその手で顔を覆った。ふ、ふ、ふ、とはじめて聞く笑い方。その手は少し震えている。驚いた少女が立ち上がると、それをとめるように伊澄は口を開いた。

「ボクもね、どうして話したのかわからないんだ。……ごめん」

搾り出すようなその謝罪の言葉を紡ぐ声は、まるで年端も行かぬ少女のように震えていた。そこから、言葉がなだれる。

「ボクの知ってる世界を忘れてほしくないんだ、誰かに知っててほしいんだ。今生きている誰かに。だって、ボクだけが知っているなんて寂しすぎるよ! それに何より、ボクの知ってるあのラルさんが、寂しいと思うんだ。いや、これはもちろん、思うだけなんだけど。だってボクにはもしもの未来まで見通す力はないから。ボクにわかるのは、ただ……」

そのままゆるゆると頭を振って、手をどけた。

「少し、話しすぎたよ」
「伊澄、伊澄は」
「今のボクは、ただの旅人。それ以上でも以下でもないよ。キミもそうでしょう? ここはそういうところだ。わかってるでしょう? ……ごめんね、少し疲れちゃった。お茶会はこれで終わりにしよう」

いつもの伊澄のままで、これはお土産。とクッキーを渡して半ば強引に少女を帰らせた。彼女は何かいいたげだったけれど、それを黙らせるのは伊澄にとって容易なこと。心が痛まないわけじゃないけれど、受けすぎた痛みを感じる力すら緩やかに薄れて。でも。

「……偽善者め、」

そう言って伊澄は、『彼女』はまた自分を呪う。

2012/12/23 dustbin
どこまでも自己中な伊澄さん。
だってどうしようもないじゃんね。






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