鼻にまでかかる前髪がとても邪魔だったけれど、それを切らないのはわたしが世界を見たくなかったからだ。自分と考えていることも見ているものも何もかもが違う。自分という小さな一つの存在は一つでしかなく、圧倒的な数の他人とは全く別物なのだということが、わたしにはどうしようもなく恐ろしいことに思えた。
みんな感情をひた隠しにして生きている。笑いながらあんたなんて消えてしまえと思っている。わたしもそうだ。黙ったまま誰かに消えてほしいと願っていたりして。だからつまり、その、そう、怖かったのだ。
自分の中にだけいるお友達のことを知ったのは、それより少しだけ後。部屋に閉じ込められるようになってからだった。彼女に聞くと、ずっと逃げていたのだという。どうしてって、それは、もちろん彼女も怖かったかららしい。とっても近いのに、筆談でしかしゃべれないなんてちょっと寂しかったけど、そのうち二人でしゃべれるようになった。しかも、心の中で。はじめての、お友達。なのかもしれない。
もう一人、怖くない人がいて、彼はいつだって自分の欲望に忠実だった。ほしいものはほしいと、嫌なことはいやと言える人だった。綺麗な赤紫色の髪は長くてまっすぐで、月みたいな黄色の目はいつも輝いていた。そんな彼の目を卑しいといって兄たちはあまり好いていないようだったけれど、わたしは彼のことが好きだった。早く大人になって、彼とずっと一緒にいたかった。でもそんな彼は、いつも通りに会ってお喋りしたっきり、連絡が取れなくなってしまった。
そんなわたしの月が消えてから、代わりのように現れたのは闇だった。
「キミは束沙だね」
何処から入ってきたのだろう。もう立つことすら億劫になってしまったわたしに合わせて、彼はその場にしゃがんでほほえんだ。銀の目に、片方はなんだろう。暗くて深くてこちらからは見えないのに、向こうからはこちらの心の中まで透かしてるような、不思議な目。怖い目。アイラ、と名前を呼んだけれど、彼女も怯えているのかだんまりだった。じゃあ、わたしが、わたしとアイラを、守るしかない。怖いけど目をつむって、その辺にあったクッションを投げた。何個も何個も、手当たり次第に。
全部なくなって、そおっと目を開けると、その人は困った顔をしてそこにいた。
「孤独だね。孤独なのは、怖いことだね」
そうっとこっちに手を伸ばすけれど、わたしが怯えたからか、途中でやめた。
「ボクもずっと怖いし、寂しいんだ。……本当だよ」
じっと黙っていると、彼はじゃあね。といって出ていった。アイラは「あの人、また来る」とつぶやいた。実際そうなった。何度でも現れて何度でもクッションをぶつけられていた。けれども彼はずっと困った顔をしたままだった。彼は何度か紅茶とお菓子を持ってきた。きっと精神を安定させる薬、みたいなのが入っているのだろう。一口もつけずに放置していたら、彼も飲まないし食べなかった。
「……アイラ、っていうんでしょう。キミの友達」
「!」
珂紗にだって、言ったことはないのに。誰にも言ったことはないのに。どうして。そう呆然としていると、彼は積み上げたクッションに背中をもたれさせた。「ボクはほかの人と違うんだ。……でもそれは、束沙も一緒でしょ?」
そうやってぽつりぽつりと彼は自分のことを話した。人の心がわかること。自分の片目と、片脚が偽物だってこと。家族はいなくて、昔からの友達もみんな死んでしまったこと。長い間ずっと一人だったけれど、最近になって友達が増えたこと。
「そしてボクは、キミとお友達になりたいんだ」
「どうして」
「キミの、他の人とはちょっと違う力に、少し用事があってね」
はっきりという人だ。と思った。ちょっとはご機嫌をうかがうものだろうと。けれどそんなことをしないのは、わたしの心が見えて、そんな言い方をしたら警戒するとわかっているからだろう。
その日は返事を聞かずに帰った。聞かなくてもわかるからかもしれない。何度来たっておんなじこと、と思っていたけれど、わたしには彼の考えはもちろんわからないから仕方がない。
仕方がない? 仕方がない、のか。
「束沙は前髪が長いね」
そういわれて、わたしは自分の髪の毛をいじった。彼が家に来て何度目かわからなかった。それくらい来ていたけれど、わたしも少しだけ言葉を返すようになっていた。
「べつにいいでしょ」
「キミの目の色はとてもきれいなのに」
「みせものじゃないもの」
「そんなんじゃあ、視界が暗いだろう」
べつに、いいもの。そう言った。視界がいくら暗くても構わない。だってここにはわたししかいないのだから。
「さみしいことを考えるね」
「そうかな」
じゃあね。と言って彼はまた消えた。その日わたしは、久しぶりにドアを叩いてお手伝いさんを呼んだ。とっても怖かったけれど、これまで程じゃない。わたしより彼女のほうがずっと怯えていて、なんだか妙な気持になった。
「髪を、切りたいの」
美容師を呼ぶ、といった彼女を止めて、わたしは断った。そんなことしなくてもいい。その代り、はさみを貸して。自殺防止やらなんやらで、刃物を持つことを禁止されているわたしは彼女に切ってもらうことになったけれど、久々に見るはさみにどきどきした。どきどきしたっていうと、なんかちがうかな。わからないけれど、なんだかそれでも感情が動いたのは確かだった。
兄たちがいない時間帯、歩くことも忘れかけた脚で庭に出たわたしは、あまりの外のまぶしさに眩暈を起こしそうになる。前髪の下で目を眇めたけれど、なんだかちかちかして気持ち悪い。
『……アイラ』
「なに」
『言いなりになることはないよ』
「べつに、ちがうもん。前髪が、うざったいだけ」
『世界はもっとまぶしいよ。また貴方を刺すよ』
「……」
なんだか、それでもいいって思えたのは、不思議だった。怖かったけれど。
それでもみんな、恐れながら生きてるんだって、わたしは知った。
そして知りたかった。
「じゃあ、少し目を閉じていてくださいね」
「ん」
目を閉じると、瞼のちょっとだけ上を、はさみの刃が通るのを感じた。くすぐったくてそわそわするけれど、じっとしてた。そうやって端っこまで行って、ドライヤーで要らない毛を飛ばす。
「……はい、もう大丈夫ですよ」
そういわれて目を開けようとしたが、あまりのまぶしさに開けられない。そうしていると、彼女は傘を出してきて、わたしにひろげた。「今日はいい天気ですね」このひとも、わたしがまぶしいのがわかるのだろうか。わたしだけ、わからないのだろうか。
「どうして、傘?」
「ああ、これは雨傘ではないんですよ。日避けの傘です」
「そうじゃない。なんでまぶしいって、わかったの」
「まぶしそうな顔をしていらっしゃいましたから……あ、迷惑でしたか?」
「ちがうもん……」
声は小さくなった。そんなふうにその人の感情を読むなんて知らなかった。読まれていたのかもしれない。わたしのしらないうちに。なんだかとても、恥ずかしい。
怖くはない。
「お散歩されますか? 今日、向こうに植えた花がやっと咲いたんですよ」
「……見る」
「では、ご案内します」
そういって立って、傘をわたしにむけたけれど、わたしはいらないといった。「あなたがいるなら、したらいい」彼女はちょっとだけ笑って、「では私もいりません」と言った。
傘の影から抜けて、よろめきながら立ち上がる。車いすを持ってこようとした彼女を止めて、ゆっくり、ゆっくりと歩き出す。照り返しもひどくて目を突き刺す。それでも、隣の人も、兄たちも、そんな世界の中で生きている。
「ほら、こちらですよ」
「……ひまわり」
ここ数年、絵本の中でしか見ていなかったひまわり。それが、みんなおんなじ方向を向いて咲いていた。何処を見ているんだろう、と同じ方向を向いてみようとしたけれど、まぶしくってできなかった。ひまわりは、太陽の方を向いて咲くという。なんていうか。不思議。
手で日よけを作って、見上げる。地平線、というか、庭の外のずうっと先には雲が浮かんでいたのに、見上げた先には空があった。青い空。深い、深い。写真集で見た海の底みたい。
「……吸い込まれそう」
「そうですね。束沙さんの目も、同じくらい吸い込まれそうな青をしていますよ」
「そう?」
鏡を持ってくるべきでしたね。と困った顔をした。そんな顔させたくて言ったわけじゃないのに。なんだかうまくいかない。彼らなら、うまくできるのだろうか。
その日は兄たちが戻る前に部屋に帰って、それから膝を抱えていた。今日は彼も来なくて、一人で……いや、アイラと二人か、じっと、いろいろ考えた。たくさん考えて、考えて、ようやく出した答えは外に出たいということだった。次の日に来た彼は、わたしの前髪を可愛らしいとほめてから、何かを悟ったようにただいつもよりもやさしく微笑んでいた。
「わたし、あなたとお友達になりたい。ここから出て、あなたと外の世界を見てみたい。いろんなことを知りたいの。ねえ、連れ出してくれる?」
「勿論さ」
そうやって彼はわたしの頭に手を伸ばした。少し避けそうになったけれど、今度は避けなかった。ぽんぽん、と頭を軽く叩いて、それからその手を伸ばした。「握手。……そういえば、名前を教えていなかったね。ボクは伊澄」いずみ。伊澄。灰色の目は少し緑かかっていたけれど、よく見たら血管が透けて見えそうだった。
「伊澄、よろしく」
「こちらこそ、束沙」
目に入る窓からの光はとてもまぶしかったけれど、それでも目を開け続けるのは世界を見たくなったからだ。大丈夫、もう平気。怖いけれど、平気だよ。
爪先立ちの夜を越えて(2013/09/30)
title by 亡霊
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