結界の外。音楽隊もいないのに流れる穏やかな音楽。雲り一つなく磨き上げられていくワイングラス。音楽と同じくらい穏やかな表情で、あたしの話を聞く白髪の少女。

「……って、ことがあったんだけれど」
「そう……」

手にしていたクロスをそっとカウンターに置いて、グラスを棚にしまう。はあぁ、と突っ伏して泣き出してしまいたいけれど、そんなことは子供か、酒に酔った大人のすることだ。あたしがするべきことじゃない。ちなみに、今目の前にあるグラスの中身はオレンジジュースである。

「ドリムにもね、いろいろあるんだよ」
「いろいろってなに」
「いろいろ、だよ」

訳を知っているような、知らないような。そんな表情で困ったように笑う。彼女でも、ダメなのか。

「マリファにも、あるの。いろいろ」
「うん、あるよ」

どんなこと? と聞こうとしてやめたけれど、マリファ……白髪の少女は、「例えば、どうして私は学生でありながらこの酒屋で働いているのか。どうして私はダンピールなのに医療科にいるのか。そもそもどうしてこんな小娘がこんな酒屋を続けられるのか……とかかな?」といった。すべて理由は知っている。あたしと、それからししょーも。この酒屋にくる退治屋なんかは、ほとんど知っているのではないだろうか。でもそれも、いろいろなのだ。

「お母さんが吸血鬼に恋をして、そして私を産んで、そしてこのギルド、酒屋を残して、退治屋として殉職して。店の常連さんに育てられたけれどこの店を残したいとわがままを言って。そしたら、あなたの『ししょー』がお金を出してくれた。……私はここを、酒屋として心を癒し、医療所として体を癒し、そして……ギルドとして利用できる、そんな場所にしたい……そんなみんなが知っていることだけれど、学校の人にはとてもじゃないけれど言えない」

そこには、私がダンピールであるという前提があるから。

寂しい目をしてそう言い、クロスとグラスを手に取った。誤魔化すように、心を鎮めるように、彼女はまた磨き始める。
結界の中では、魔力のあるもの、死して意識のみの存在となった者や、異形……吸血鬼、鬼、妖怪の血を継ぐ者への風当たりはきつい。ダンピールは吸血鬼を倒せる力を持っているため、特に厳しく管理されるという。それを逃れられたのは、マリファの生家が結界の外にあり、『独立ギルド』の一員として、生まれたときから登録されていたからだろう。それほどまでに、ここは位の高い場所だったのだ。

「マリファ。マリファは、恨まないの? お母さんを殺して、ギルドも壊した相手のことを。吸血鬼や、幽霊や、鬼や、妖怪や、魔女を、憎んでいないの?」
「……」

突っ伏していたその後頭部に視線を感じて体を起こすと、マリファとしっかり目が合った。理知的に光る茶色い目の奥にある暗い部分に吸い込まれそうになるくらい、しっかりこちらを見ていた。

「憎まない。……憎しみは何も生み出さないから。私はできることなら、そういう『退治すべき対象』をも、癒したいと思ってる。退治屋失格と思われてもいい。それができるくらい、ここをもう一度『独立ギルド』として復興させたい」

(すごいや)

自分の意思をもって、自分の夢をかなえるために、この人は毎日戦ってる。それは吸血鬼相手だけじゃなくて、自分と、周りの環境と戦ってる。

「ししょーは、どうして悪魔退治屋なんて、してるんだろう」

お金に執着のない人だ。ししょーは寝て、起きて、お散歩して、たまに本や新聞を読んで、あたしにいろいろ教えてくれて。何かを飲んでるところを見たことはあるけれど、何かを食べるところはめったに見ない。あたしが何も作らなければ、ししょーは本当に何も食べない。ししょーは……。

(あたし、何がしたいんだろう)

ししょーの役に立ちたくて、でもししょーは、ししょーとって、ずーっとずっと、ししょーのことばっかり。あたしはどうしたいんだろう? あたしはなにがしたくて、ここにいるんだろう? 悪魔を退治したいからなのかな。お母さんとお父さんを、殺した、悪魔を全部全部、殺したいから? ……違う。そうじゃない。
あたしは一人ぼっちが怖いだけだ。

EランクからDランクになったとき、どうしてかなって思ってしまったんだ。どうしたらいいのかな、とも。目的がないのだ。Eランクで生計を立てている人もたくさんいる。Dに上がって、ししょーに珍しくケーキなんてご馳走になってしまって、もちろんすっごく、すっごくすっごくうれしかったけれど、でもそれ以外にどうしたって、どうなるって、思ってしまったのだ。

筋は良いからきっともう少し上がるだろう。君の10年後がとても楽しみだ。そう、Dランクになったときに言われたけれど、私はきっとならないだろう。なれないだろう。そこから先は、向上心のあるものにしか叩けない扉だ。

ししょーは、Sランクである。

Sランクなんて変態の巣窟だとよく言われるけれど全くそうで、どう足掻いたって説明はできない。彼らの第一目標は「殺したい」とか「金がほしい」とか常にまっすぐだ。ししょーにも、きっと理由はあるんだろう。殺したいとか金がほしいとかではたぶんないけれど、いや、絶対ないといってもいい。とにかく、理由があるのだ。それが、きっと、「いろいろ」なのだ。

いろいろあるから、あたしのしらないいろいろがあるから、ししょーは、黙ってる。知らなくてもいいから。言わなくてもいいから。ししょーがいうことは全部理解できるし、それだけで十分……とは、絶対言えないけれど、正直十分だったりするのだ。だったら、ししょーを信じよう。
きっと、言わなきゃいけなくなったら言ってくれる。言いたくなったら、言ってくれる。ゆっくりと、とぎれとぎれに。

「マリファ」
「なあに?」

じゃあ、マリファは知っていて。ししょーには内緒の、あたしの『いろいろ』。

「あたし、今、頑張ることに決めた。ししょーに追いつくんじゃなくて、追い越すんじゃなくて、並んで歩けるようになる。別々の道で、別々の場所でも、並んで歩くことは、できるもんね」

例えば、殺したい人と、お金がほしい人と、ギルドを再興したい人と、お医者さんになりたい人が、並んで歩いているように。

「そうだね。……頑張ろうね。わたしとラエディも今、並んだよ」
「もう?」
「うん、ラエディは、頑張っているから。決めた瞬間から、頑張っているんだよ。どれだけ歩けるかはわかんないけれど。今はきっと、並んでる」

だから、一緒に歩こうよ。時には手を取り合って。時には笑いあって。わたしも歩きながら、場所を提供するよ。お酒も。そして傷ついた心と体を、癒すよ。





「で、弟子を紹介してくれるわけではなく、気まずいから二階からこそこそ出てきて、わたしのところに来たってわけ?」
「……」

さらさらと、地面まで届くエメラルドグリーンの髪を揺らして、少女は小首を傾げた。ラエディよりもずっと幼い、6歳か7歳くらいに見えるが、かれこれ70年ほど生きているれっきとした魔女である。
ドリムの立つ床と、そして見える壁はひんやりとした石で、どこを見てもつるつるで、揺らめく炎の光を返していた。洞窟の奥だからかなり暗いはずなのに、そのせいでところどころ、目に光が焼け付いている。

「あんた、今何歳?」
「わからない」
「あんたたぶん逆行しているよ。術を掛けたときは、もっとしっかりしていた。丸くなったのかな」

舌足らずな声でそう言って、にしても丸くなりすぎよ。とつけたし飴色の目をきゅっと三日月形にする。

「……悪いことをした。怒るつもり、隠すつもり……あったけど、なかった。……傷つけた」
「でしょうねえ。12歳なんて、普通は親の手伝いをしながら友達とキャッキャしてるような年頃よ? それを親を殺されて、一人ぼっちで、こーんな通訳の面倒くさい師匠と二人っきりで旅ってだけでかなり精神的苦痛があるのに、そのたった一人の師匠に自分はさっぱり悪くないのに、その師匠のエゴで理不尽に怒られて、しかも今その師匠は自分を置いてどこかに行ってしまった、なんて。わたしなら絶望して飛び出すわぁ」
「そんな子じゃない」
「そうかしら。12歳よ? 師匠から見てしっかりして見えるのかもしれないけれど、それはひいき目ってやつよ。あんたがわたしと同じくらい、それ以上生きているとして70として、60年前何をしてた? 何を考えてた? 覚えてない位幼いでしょ」
「……」
「逃げてないでちゃんと謝りなさい。とっととかえって。さあ。ラエディちゃんは逃げる場所もないのよ。戦う場所はたくさんあるけれど」

しっし、と追い払うポーズをして、魔女はくるりと踵を返して背後にあった水がめをのぞき込むふりをする。もちろん何のまじないも掛けていない今、そこに映るのは自分の顔だけだが、ドリムは何かをしているのかと勘違いしてくれたのか、足音が響き始め、そして遠ざかり、消えた。

(やれやれ、あの古い知り合いは随分とわたしのストレス発散に付き合ってくれたようだ)

水がめに映る顔は、晴れ晴れとしている。ちょっと言い過ぎたかもしれないけれど、最近引きこもってばかりでストレスがたまっていたのだ。たまにはこんなこともいいだろう。ひとしきりにやにやして、そしてふっと真顔になる。

「……まあ、ああはいったけれど」

水がめにそっと手を入れる。と、波紋が広がって自分の顔はゆがんだ。

「12歳くらいの女の子は、急に少女になるものよ。ドリム」

それについていけるのかしらね、ドリム。
……時を手放したダンピールさん。

今をもう少しだけ、【2】(2013/08/05)
女の子と少女とロリババア





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