零れる吐息に感じられるのは落胆の色ではなく、安堵と安らぎの色。ほんのりと上気しているだろう己が頬は緩んでいる事が嫌でも推測可能であり、事実口元は緩やかに弧を描いている。表情の緩みが気の緩みに繋がるのかといえば必ずしも直結する訳ではないけれども、今はらしからぬ気の緩みがあるように思えた。
目前に広がる状況がそれを引き起こす理由であり原因だというのは明らかな事実。
更に実を言ってしまえば、それは今回一度に限らず幾度となく繰り返されており、半ば恒例化しつつあった。始まりは何時何処の事だったか、月日を思い出す事が難しくともその時に感じた印象を思い出すのは容易い。
あの時の印象のまま今も変わらない彼に私に、本当によく飽きないものねともう一つだけ静かに吐息を零した。




身体の力を抜くと腰掛けている椅子が小さな音を立てる。
私に椅子の価値など分かる訳もないのだけれども、少なくとも下町の酒場に置かれている様な粗野な造りではなく、職人の愛情を注ぎ込まれた品である事が伺えた。同じ木材で出来ているテーブルも同様に精魂込めて造られている事だろう。
ただし、テーブルには真っ白なクロスを引かれており、その上には白磁のポットとティーカップが二つにスコーンとジャムがいくつか置かれている。これこそが頬の緩む原因であり、溜め息を零す要因であるのだけれども、それらに手を伸ばさずにはいられなかった。


一つ手に取ったスコーンを二つに割れば中に溜まっていた芳ばしい香りが上気とともに私の鼻をくすぐる。私の好みを私よりも熟知しているように思える焼きたてのスコーンの味に、作り方を聞き出そうとするも成功した事がない、――まあそれはある種の駆け引きであるのだと知っていたから問い掛けも断りの返答もいつも一度きりだけなのだけれども。
続いてポットから注がれた紅茶に口を付ければ芳醇な香りが口内に広がり、そのまま鼻へと抜けていく。アールグレイと焼きたてのスコーンの香り程気品のある組み合わせは他にないだろう。何もせずに財産の浪費ばかりをする貴族など批判の対象でしかないけれども、これらを思い付いた人間ばかりには拍手の一つでも送らなければいけない、と思わずにはいられない。




そしてそんなどこかの貴族のアフタヌーンティーの様子にも見えるその場は、貴族よりも優雅な物腰の彼によって非の打ち所もないものとなっていた。その指先にまで気品という呼ぶに相応しいだろう何かが含まれている。残念ながら船の甲板の上、向かい合う私達は貴族なんて固いものではなく自由気ままな海賊なのだけれども。
潮風が風味を損ねる事に多少の不満を覚えながらぼんやりと正面を見据えると、いつもの事であれども意識は私の手元から離れた。




ゆらゆらと夢物語よりも儚く淡い金糸は、遮るものの何もない太陽光に反射する金髪はあまりに美しい。話しかけられていると分かっていても、私の意識は言葉を咀嚼しようとはせずにどこか別の場所へ飛んでゆくのだ。音の存在は意識の外へと遮断され、自らを取り巻く世界は静寂に満たされる。そして自らは音のないゆらめく金と青に満たされる。それは、それこそ視野に入るものがまるで身体の構成成分ではないのかと錯覚する程に。
青に透けるような金とその背景に存在する青の取り合わせは昼間の美しさを凝縮した様であり、恭弥やリボーンを闇とするならば光なのだと意識の片隅で考えていた。海賊なんて似合わない、日陰者の身でありながら陽の下が一番似合うのは何かの皮肉ではないのだろうか。そう思考を追うように重ねると突然意識が戻ってくる。静寂は鼓動の様に規則的ではないけれどもそれに近い波の音によって泡の様に儚く姿を消していた。本来のさざめきであるにも関わらずどこか静寂の行方が気になるのは、静寂からかけ離された日常に身を置いているからなのかもしれない。






「おい、」
「――あら、ごめんなさい」
「また海にでも見とれてたのか?」


苦笑を含めた笑みをゆるゆると彼に向ければ、ディーノはへらりと笑う。
悪意のない笑みをこうも向けられる彼に海賊はやはり似合わないような気がする。暖かく力強い日差しに煌めく金がゆらゆらと揺らめく度にその想いは募っていた。大勢の手下を率いる頭である彼に面と向かって言葉を紡ぐ程愚かであるとは思いたくはないけれど。


「ご用件は何だったのかしら」
「いい加減俺らの船にこねーか?」
「それはお断わり、よ」


毎回繰り返される問答は何もスコーンの作り方一つだけではない。いや、彼からすればこちらが本音といったところなのだろう。私の意志を尊重しようと毎回必ず問い掛けるディーノは、略奪に主軸を置く海賊にはやはり似合わない気がしてならない。もちろん力にものを言わせたところで私を拘束出来る訳がないと知っているからなのかもしれないけれど。
――私を束縛出来るのはこの膨大な青、もしくは私の主である私だけだ。変化を恐れず他者を受け入れながら、しかし束縛を許さない私を変わり者と称する人間は多いけれども、私という存在自体がまずそもそも海に出た時点で異端なのだから変わり者と呼ばれる方が可愛らしいというもの。誰しもが気付いていながら異端者であるとの言葉を出さないのは、認められていると認識するのが適当かは分からないけれども。



そして、その変わり者は宝石や貴金属が欲しいのではない。海賊という名の下で生きている人間の台詞ではないかもしれないけれども、私の欲しいものはどれだけ美しく光り輝いていようともただ輝いているだけの無機質なものではなく、金糸の美しい生に溢れた珠玉なのだ。珠玉を愛でたいがためにその手の中へ入り込むのではなく自らの力で奪い取りたいと思考する限りは海賊と称する事が出来るやもしれない。けれども、手元に置く事が出来なくとも一番美しくあるままに出来るのならばそれでいいとの考えがあれば、やはり海賊は向かないのだろうか。
とうの昔に出ている筈の結論を覆す訳でもなく繰り返している事に対して不毛であるとは思わないけれども、しつこいまでの思考がよいとも思えないので無理矢理に思考を打ち切る。






「そろそろね」


温くなってしまった紅茶を余韻を残しながらもかき消すように口に含んでソーサーに戻せば、向かいに座るディーノが笑みをこちらに向けていた。常に笑みを絶やさない彼の表情はまた別の意味で読みにくいのだけれども、今の彼の笑みは純粋な笑みと言うに差し障りはないだろう。愛おしむ様な懐かしむ様なその表情に心くすぐったい心地を感じずにはいられなかった。直視する事を憚られてしまうような、けれども視線を外せない魅力的な笑みだ。


「行くのか?」


問い掛けに首肯の意を込めてディーノに笑みを返し、潮風が撫でる髪が顔にかからない様に避けながら座り心地のよい椅子から腰を上げる。椅子の足が床を引っ掻く軽い音は、まるでこの場所に私を引き留めようとしている様に聞こえたけれども、もう時間だ。背筋を伸ばして意識を切り替える。


「いつもながら楽しかったわ」


青の鮮やかさに恋い焦がれる様にして海へ出た中で見つけた珠玉を手中に収める日が叶う事は決してないけれども、こうしたものならばそう悪くはないと思う私がいるからこそ、こうして何度も繰り返すのだろう。



海賊の名には似合わぬささやかな午後の茶会を後にして、身を海に躍らせた。





紅い水に沈む金色の星屑






また会いましょう、とは決して言わない。
不確かな足場で生きている私達に未来への約束は必要ないのだ。
約束など無くとも、生きているならば必ずまたどこかで会える、邂逅する事になるから。



(090520)
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