ブックマンは記録する者。
裏歴史を全て記録した、人という名の本であり本という名の人間。
何を取り出すかは本の意志次第であって、本は嘘を紡ぐ事無く、けれども真実を紡ぐとは限らない。

ブックマンは、記録する者。
すべてに公平であれ、私情を挟むべきではないと本は言う。

ブックマンは、記録する者――。
その虚ろなガラス玉が世界を映す。
何を考えるのでもなくただ現実を映し出し、何をするでもなくただ現実を記憶する。
移り変わる事象に身を任せるようにしながら、決して世界には混じり合わない。


それはとても尊い事で、それはとても哀しい事よね。
紅い溶液の入った試験管を振りながら彼女はそう呟いた。
夕陽を溶かした様な紅が何かを待ちわびる様に狭い試験管の中で揺れている。
オレはその紅に視線をやりながら何故かと問いかけた。
何故オレの存在は哀しいのか、と。


すると彼女は、そう聞かれるのが当然であったかの様に淀みなく答えてきた。
まるで聖書の詩篇を朗読するかの様に、柔らかなメゾソプラノが言葉を紡ぐ。


記憶するだけならば誰であっても出来るのだと、彼女は言う。
愚者であれ賢人であれ、赤子であれ老人であれ、女であれ男であれ、脳という中枢機能に差はさほど無い。
しかし、それを取り出す事が出来る人間となれば話は別であり、その能力がある人間は限られてくる。
だから一言一句間違えず、一挙一動を見逃さず、全てを取り出す事の出来るオレの存在は尊いという。

そして記憶は時として人間によって改竄されるのだと、彼女は言う。
誰にされるでなく、己を守るための防衛本能が自らの記憶を書き換える。
人は弱いから、刃から身を守る盾として記憶を意図せず操る。
だから、全てを記憶して改竄を許さないオレの存在は哀しいという。


「あら、貴方が泣く程私は酷い事を言ったかしら」
「別に、泣いてなんか、」
「じゃあ雨でも降ってきたのかも知れないわね」


試験管の中の色が紅から紫に変化する。
それを見た彼女は、憂えた様な表情をしてからオレを見ると、そう言って静かに笑った。


もしもこの場で誰かが泣くとしたら、それはオレでは無く彼女が泣く筈だろう。
例えそれが何の意味を成さなかったとしても、彼女には誰よりも泣く権利があるのだ。
けれど、彼女が涙を流す事は決してなかった。今の様に憂えた表情をしながらも、優しさを孕んだ微笑で天を讃えている。


彼女が泣かないというのに、オレが泣く権利がどこにあり得ようか。
泣いてないと否定しながら、オレは頬を伝う水を乱暴に拭った。
その様子を見た彼女は、薄く微笑んでからまた音を紡ぐ。


「ねえ、私はああ言ったけどブックマンは本じゃ無いのよ?」
「当たり前さ」
「じゃあそれを忘れては決して駄目」


彼女の着た白衣はどこまでも白く、そこから覗く彼女の肌は更に白かった。
もうどれ程彼女は太陽の下に出ていないのだろう。
教団の地下、この場所を知る人間なんてほとんどいないのだ。
知っているのは教皇庁と室長、そしてブックマンくらいのもので、科学班や捜索部隊はおろかエクソシストでさえこの場所を、彼女の存在を知らない。


窓一つ無い部屋、天から一番遠い場所に彼女は拘束されているのと同じ。
誰よりも美しい天を讃える微笑みは、決して天を仰ぐ事が出来ないのだ。
この場所からこの女性を解き放ってやる事が出来たらと何度思った事だろう。
しかし、ブックマンの後継であるからこそ、この場所を知っているのだ。
この場にいるのは彼女の動向を記録する為であって、彼女の話し相手になる為ではない。
それを知ってなお、彼女はオレを尊いという。それを知っているからこそ、彼女はオレを哀しいという。
自身の処遇に触れる事無く、オレに気にかける彼女。
感情が揺らいだのも、おそらくその所為だ、そうに違いない。


「何でさ?」
「貴方は紛れもないブックマンだけど、貴方が人である限り、例え貴方が世界を拒絶しても、世界は貴方を拒絶したりする事はないから」


そう彼女が言い切ると、試験管の中は静かに紫から蒼に変わった。
東雲の棚引く空の様に深く鮮やかな蒼。
それは、彼女が長年待ち望んだ反応だった。
ブックマンの記録にもない調合であり、錬金術で金を作り出すにも等しい、彼女以外には決して生み出す事の出来ない調合。

まるでそれは蒼いエリキシルだった。

ルビーとサファイア、同じものでありながら名前の違う宝石と同じ様に、同一のものではないのかと錯覚する。
否、事実それは彼女にとってのエリキシルなのだろう。
器を抜け出し純白の翼を得て、そして天を讃える笑みは今度こそ揺るぎない蒼天を仰ぐ。

その為の、蒼いエリキシル。


「貴方は記録対象を失って残念かも知れないわね」
「そんな事ないさ……」


ブックマンは記録する者。
ただ移ろうままに身を任せ、必要以上の干渉をする事は許されない。

よってこれから彼女がする事もオレは見届けなければならないのだ。
出来る事ならばこの手で解放してやりたかった。
出来る事ならばこの手の中に一生留めておきたかった。
ブックマンであるオレは尊い役目を忘れない事を誇りに思い、人としてのオレは感情を優先出来ない事を哀しく思う。





天使は翼を得て天へと還る
(この手には純白の羽根)





人である限り、世界は拒絶しないと彼女は言った。
ならば人としてのオレが彼女を引き留めていたら、彼女はこの地に残ったのだろうか。
オレの世界であった地上の天使は――。





(090805)
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