足の踏み場もないその場所は普段使用している研究室ではなく私の自室であった。
睡眠不足を補う以外に利用価値が思いつかないその場所は、それでも僅かな休暇で集めた本が山よりも高く積み上げられており、端から見れば乱雑に積み上げられているそれはしかしながら絶妙なバランスで保たれている。
足の踏み場のない理由であるのは、床に散らばる良く言えば前衛的、悪く言えば蚯蚓がのたうち回った様な文字が白い面積を埋め尽くさんばかりに書かれた数え切れない紙。
それは関係のない人間が見ればただの落書きよりも価値がなく、関係者が見れば価値には気付くもののやはり内容を理解しがたいものである。


そんな本と紙に埋め尽くされた部屋の中、私はくり返し溜め息を吐いていた。
手元にあるのは、とある研究のデータが細部まで綿密に書かれた書類の束。
そこに書かれているのは予測した通りの結果であり何度読み返そうとも結果が覆る訳がない。
自分の予測が当たっていれば一研究者としては喜ばしい限りなのだろうけれども、感情論は別物。
もう一度もう一度と不毛であると分かっていてくり返し資料に目を通し、そしてその度に溜め息を漏らすのだ。
自分に嘲笑の意を込めているのかはまた別の話なのだけれども。


紙面をなぞる事を無理矢理止めると視線が行き場所を無くして空を泳ぐ。
行き場のない視線をどうしようかと書類から離れない頭で思考をしていると自分のではない声が背後から耳朶を打った。
心地よい低温でありながら、悩みの原因でもある。





「で、何をしたんだ?」


振り向けば、長期任務から帰ってきたばかりの黒髪のエクソシストは埃を被った椅子を紙の中から引っぱり出してそれに腰掛けていた。
彼がいつ部屋に入って来たのか思い出すのは難しかったけれども、相手が気配を消す事を容易くこなし自分が気配を読む事に疎いという事を思い出すのは容易い。
任務を終えたら此処へ来るように伝えておいた事まで思い出せば疑問は意味を成さなくなる様であった。


そんな現在に不必要な情報は引き出しやすい様に瞬時に整理され、頭の片隅へと追いやられる。
そして空いた空間で彼の言葉を反芻して咀嚼して、ようやく脳は答えを導いた。


「神田を被験体にして研究だ」
「研究?」


手の中にある書類をひらひらさせながらつまらなそうに笑えば、怪訝そうな表情をする彼。
一度たりとも彼に、彼を被験者にすると言った記憶はないのでその表情の理由をこちらは納得する事が出来たのだけれども、彼には納得が出来ない事ばかりであるのは推測しなくとも分かり切った事であるので、簡潔に説明しようと再び口を開いた。

丁度手を置いた場所から書類が小さな雪崩を起こしたように床へ広がり、ますます書類が降り積もっていく様子は横目で見るだけで触れようとはしなかった。
形作るも壊れるもそれがあるべき姿なのだと言えば聞こえは良く、実際のところはただ面倒に思っているだけ。
今更十枚百枚増えたところでは変わりはしないと言う事だ。


「ある物質の毒性の強さについてだ」


それは、中世の欧州では殺したい相手に料理等に混ぜて服用させていたんだ。
まあ最近の研究で毒性は低い事が分かってきたから、その真偽を確かめようと思ってな。


そこに悪気が存在しないように装い事実のみを淡々と語れば、些か彼の表情が歪んだように見えた。
何故かそれを見る気にならずに彼の足下に落ちている、正確には足の下にある書類に視線を落としたのだけれども、残念ながら視線はすぐに己よりも上に上がった。
座っていたために同じくらいだった目線は気が付けば数十センチのずれを生じている。
互いの距離が近いので見上げる角度は随分と大きかった。


「俺で試したって事か?」
「それが何か?」


見下ろす黒い瞳は私の天頂から爪先までを文字通りに射抜く。
言葉が足らずとも、足りないからこそ補う漆黒の双眸は彼の意志を強く物語る。
その覆らない意志の強さは他者を屈服させる力を持ち、それ故私はこの瞳が嫌いだった。
彼が数少ないエクソシストの一人である事も重々承知している。
その強さを期待されている事も、――そう、彼に関わる事なら全て。


段々と苛立ちが胸の内に渦巻き、何もかも曝け出したい気分へと変化を遂げていった。
らしくないと知っていようと歯止めはかからずに加速をしていく。
気が付けばその意志にたたきつけるように言葉を紡いでいた。





「――帰還する度に梵字の広がる様を見て何が楽しいんだ」
「千歳?」


目を丸くする彼、――彼の命を喰らう梵字の事も知っていた。


崩れた書類の山と同じ様に手元から資料が離れ、床の一部になる。
乱雑な様子とはいえ広がる白に彼の纏う黒、それはまるで葬式の様ではないか。
殉職者はエクソシストやファインダー、数え切れない程見てきた。
いつ死ぬかも分からない職を選んだのは彼ら自身の意志でありそこに悔いはないだろうし、送る側もその意志を揺るがしてはいけない。


けれどもそれは建前であるというのも事実。


遺体の傍で泣き崩れる仲間、同僚の姿も幾度となく見てきた。
そして私はそれを怖れているのだ。
この意志に贖えない自分がいる事で、この瞳を見ることが出来なくなるのではないかと。触れれば暖かく、耳朶を打つ音は心地よい。
それがいつの日か消えてなくなってしまうかもしれない事を怖れているのだ。

そんな時がやってくることに怯えて暮らせというのなら――。


「いっそこの手で殺してやりたいくらいだ」




その毒の名前は緑青と呼ばれる。







緑青の毒をあなたに
(この毒では殺せないと分かっていて)(私が貴方を殺せないと分かっていて)



何も言われぬままただ抱擁され、暖かな腕の中で私は必死に涙を堪えた。





(090321)
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