「神田、追い掛けてくるのを止めろ!」
「てめぇが止まりやがれ!」


ぜいぜいと自分の呼吸がうるさいのに、足はすでに棒と化していると言うのに、何故走り続けているのかと言われれば、追い掛けられているからに違いない。
肉体労働派のエクソシスト相手に、かれこれ一時間か二時間は走り通しで逃げているのだから、自分に拍手を贈りたいところだ。
精神労働派の体力は意外にもしぶといらしい。
日々あの室長の元で働いていると必然的に体力がつくのだろうか。
そういえば一週間連続の徹夜くらいでは倒れなくなったと喜んでいた物悲しい思い出もあったか。

ただし、向こうにはまだ余裕が見てとれると言うのに、こちらはすでに限界に近い。

そもそも何故追い掛けられているのかと言われれば、全く見当がつかないのだからどうしたものだろうか。
しばらく彼は遠方に任務で出かけていたので、ホームに帰ってきたのは久しぶりのはずだったから、わざわざ研究から離れて水路まで迎えにいったと言うのに、人の顔を見るなり不機嫌に顔を歪めた。
私が何を話し掛けようとその仏頂面は変わらず、室長に任務の報告を始めるまで一言も口を開こうとはしない。
最初は長期任務で疲れていたのかと思ったが違うと頭が警告を発していた。
段々と嫌な雰囲気が漂い始め、彼が室長に報告を終えたとき、それは爆発したのだ。


「おい、てめぇ――」


室長室を出た瞬間、殺気ともとれる様な怒りを言葉の端々からとる事が出来、同時に生命の危機を感じずにはいられなかった。
私の方に歩みを進めてくる彼と同じ分だけ、私も後ろへと下がる。
おそらくそこで素直に彼の怒りを受けとめておくべきだったのだ。
例えどんなに理不尽な怒りであったとしても、後の為に。
しかしながら当座の怒りから逃れようとするしか手立ての思いつかなかった私は、愚かにも彼の前から逃げ出したのだ。
三十六計、逃げるに如かずと言う言葉が日本にあったが、本部科学班所属としては百八計くらい巡らせてからの方がよかった、と走り初めてから後悔したが、時すでに遅し。
立ち止まったら何が起こるのかなど、考えたくもなかった。



そして走り続ける事数時間、今に至る訳だが、後ろのエクソシストは止まる気配を見せない上に、科学班の人間や他のエクソシストが、この様子を楽しげに見ながら勝手にも声援を送ってくる。
一時間以上も教団内を走り続けていれば人目につかない訳がないか。
しかし私がいつ捕まるか賭けをしている様で、私がこんなにも必死で逃げていると言うのに、娯楽の種にするとは許せない。
後で掛け金は私の研究費にしようと固く心に誓い、それらから離れるためにも私は階段を駆け上がった。


「逃げんじゃねぇよ!」


背に彼の怒号が聞こえるが無理なものは無理であって、止まれるものならこうも苦しいのに走る訳がないのだ。
今駆け上がっている螺旋階段は普段あまり人が通らない場所の様で、走るたびに埃が舞って喉が痛い。
どれだけ掃除をしていないのだろう。


「追い掛けられる理由が分からないのに、どうすればいいんだ、――っ!」


声を張り上げたら気管支に埃が入ったらしく、思い切り咳き込んでしまい、くらりと眩暈がして階段の手摺りにもたれかかってしまった。
ああ、さすがにもう逃げ切れないだろうと、足を止めて咳き込みながら考えていたら、何故かまた怒号が飛んできた。
しかし自分の咳がうるさく、その声を聞き取れない。
私が止まった事に何か言っている様だけれど何かいけない事をしたのか。
だけれど一度止まってしまえば、再び走りだす気力などありはしない訳で、もう仕方ないとずるずると更に手摺りに体重をかけた。


そこに至って始めて、彼はこれを危惧していたのだと理解する事となる。
使用形跡もほとんどなく、掃除されている様子もない。
それは金属で出来ている手摺りも塗装が剥げ、酸化しているのだろうと安易に推測させた。
酸化、つまりは錆びて強度が減少していると言う事で、私がもたれかかった手摺りも例外ではなかった。

ギシと嫌な音と同時に、傾き始め、力を抜いてしまった私がそれからどうにか離れるよりも先にパキンと更に嫌な音がする。


「――!」


高さだけで言うならかなりの高さがあった。
落ちたら一般人の私など助かりそうには到底思えない。
もし私が天命を待たずして死ぬなら、絶対に過労死であると思っていたのに、まさか転落死とは。

おまけに原因も分からぬまま、彼と喧嘩別れと言えるかも分からぬ状況を最期にするとは何と後味の悪い事か。
いや、最期くらい彼に思い切り叫んでやればよかったのか。
悔いているのかいないのか分からない様な思考を展開しながら、どうにでもなれと瞳を閉じて落ちるままに身を任せた。









緩やかな勢いで落ちていたはずなのに落下が止まった気がする。
いやしかし、気のせいだろう。
このまま死ぬという実感がないからか、夢幻を作り上げたに違いない。
そう、腕を捕まれた気がするのもあくまで気のせいで――。


「――神田?」
「てめぇは馬鹿か」


瞳を開ければ本当に腕を掴まれていた様で、私の身体は宙で止まり、手摺りはそのまま下へと落下していった。

助かったのかと思えば、彼はいとも簡単に私を引き上げ、そしてそのまま抱き寄せられる。
突然の行動に驚くも、そこへ来て初めて自分の身体が震えている事に気付く。
頭では馬鹿馬鹿しい思考しか展開していなかった様だけれど、身体は死に対する恐怖を感じていたらしい。
しかし、それも暖かい腕の中に閉じ込められた事によって徐々に治まっていった。




気付いていなかった混乱から、しばらくして落ち着きを取り戻した私は、この様な事態に陥った原因を聞き出そうと彼に問いかけた。
すると頭上からやはり不機嫌そうな声が返ってくる。
ただ、先程の殺気の様なものはもう感じられなかった。


「何故怒っていた?」
「薬品事故があったと任務先でコムイから聞いた」


薬品事故――?
研究と仕事に埋もれた記憶を思い返してみると、確かに薬品事故があった。
積み上げられた薬品の山がふとした拍子に崩れ落ちてきたのだ。
ただ規模としては大きいものではなく、被害者も私以外にはいなかったはずで、室長が作る薬によってもたらされる被害に比べれば小規模なものだったと思うのだが。


「それがどうかしたのか?」
「その薬品を被って、一週間医療室に世話になってたのは誰だ?」
「別に怪我はしていない」


この調子だと彼は私が大怪我をして、集中治療室にいたとでも思っているのだろうか。
そんな訳がない、確かに私は一週間ばかり仕事や研究からも離れ医療室にいたが、ただ眠り続けていただけなのだ。
薬品の副作用も原因の一つではあるが、その前数日間徹夜をしていた為、早かれ遅かれ私は眠りこける羽目になっていたに違いない。
仕事に支障を来してしまった事に問題はあれども、あれ程までに執拗に追いかけられる事では無かったと思うのは、彼は任務から帰ってくると必ず怪我を負っているのだから、それよりも余程健全だと思うのは間違いなのか。


「俺はな、」


そう若干の抗議が含まれる考えをしていると、彼から珍しくも呟く様な声が落ちてきた。


「千歳を失ったかも知れないと思ったら目の前が真っ白になった」


その後でただお前が眠り続けているだけだと聞いた後も、だ。
それにさっき、もし掴み取れなければ、お前が俺の手からすり抜けてあのまま落ちて行ってしまったかもしれないと思うと、お前を手放せる気がしねぇ。
頼むから俺の前から消えないでくれ。

不意打ちを受けた様なその言葉は珍しい彼の弱音。
私が彼を任務へ送り出すときと同じ想いを彼もしてくれていたのか。
一時間以上も走り続けていた、階段から落ちかけた事等、その言葉で全て忘れてしまった。


「すまなかった――」


本当に紡ぎたかった音は違ったのだけれど、愛を紡ぐのはどうにも性に合わないと言い訳して、その代わりに彼にそっと笑みを向ける。
どちらからともなく触れた唇は、お互いの手を離す事など決して出来はしないと物語っている様で、とても甘く苦かった。





私を捕まえるために
(掛け金はもちろん没収)(臨時収入と喜ぼう)





(081207)
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