「火拳の名が泣くわねぇ、エース」


薄暗い地下で女の声が響く。ねっとりと絡み付くような、嘲笑を含んだ声音が幾重にも木霊してはやがて霧散してゆく。最後の一音までも聞き逃せないほど閑寂とした空間はそれ故に不気味で、耳朶を打つ音さえも何かが違っていた。思考の根底から崩されてしまうのではないかと思うほど、音色は木霊する度に狂気を孕む。


その中で相対するのはただ二人、男と女。
正義を背負う女と悪魔に魅入られし男。


女は海軍の一端を担う若き将校であり、男は大海原を震撼させるほどの海賊だった。どちらも海でその名を知らぬ者はいないほど名が知れ渡っており、海軍あるいは海賊の畏怖の対象になっている。海を中心に定めた両極に対する彼らは、しかし実力がもの言う世界で高みへと瞬く間に駆け上がった、という点で非常によく似ていた。
弱者として一生を終えるか、強者となりきれず志半ばにして他者に手折られるか、強者として高みへと上り詰めるか。後者として生きるのならば、全ての前者を一個人の意志に関係なくして背負わなければならない。
海の魔力に魅入られ淘汰され。それでもなお生き残るためには強靭な覚悟が必要不可欠であり、それは朽ち果てた他者を背負うにも符合する。


その覚悟故か、互いに引き合いながらも反発する磁石のように彼らは常に互いの刃を交える関係にあった。例えば船上で、例えば陸地で。時に男が女を追い詰め、時に女が男を追い詰め。燃え盛る炎が海を大地を天を焼き焦がし、淡くも燃ゆる火の粉が風に舞う。互いの部下達もその時ばかりは静まり、己が大将の尋常ならぬ戦いに見入っていた。しかし繰り返し相対するものの、拮抗する実力では決着が着くことはなく。


ただ、男が常に逃げ遂(おお)せているという、海軍としての職務を全う出来ていない点において、女は常に敗北を喫していた━━。


「新世界ですら名を馳せた火拳ともあろう男が今や狭い檻の中だなんて、」


それ以上の言葉は沈黙に溶かした女は、また一歩と男に歩み寄る。僅かにあった距離は零に近付き、それでも檻には触れずに男を覗き込む。檻に触れないのは女もまた男と同じ能力者だからだ。海楼石で出来た檻は海に嫌われた女を拒絶する。だから、女は檻に触れる寸前で動きを止めた。その顔に浮かぶのは変わらない薄い笑み。形の良い花弁が紅く色付きながら左右に引かれる様はあまりに場違いでありながら、あまりに扇情的だった。


女の言葉に反応するように男が身動ぎをすると、繋がれた海楼石の重たく冷たい音色が辺りに響く。青き大空も彼らの生きる蒼き大海原さえも見えぬこの場所で木霊し消え行く音はやはり狂気を孕んでおり、何かを徐々に狂わせていくようだった。狂わせるのは男か女か或いはその両方か――。


「海軍のあんたがこんなところまで何をしに来た」


インペルダウンに幽閉された者に面会を求めるのは容易くない。どれ程の権力を積み上げようと、難攻不落の要塞は不安要素の受け入れを拒むからだ。男は海軍に敵対する者である為、己と面会を求める事が女にとってどれほどの過程を要したかは分からない。
ただ、風の噂に聞くインペルダウンの堅牢さを身を持って知ったことや、また己が最重要危険人物であることの認識を持っているからこそ、どうしてわざわざ面会を望んだのかと問うていた。


「無様にも捕まったあんたを嗤いに来ただけよ」


女が幾度となく取り逃がしていた男がようやく捕まった。とうとう海軍の名の下に拘束された。今まで女を嘲笑うかのように逃げ遂せていた男ですら、遂には海軍の手に落ちたのだ。それは、悪である海賊の存在は例え栄えようとも最終的には正義の下に駆逐されるのだ証明されたに等しい。二十余年前、一人の海賊によって幕開けされた大海賊時代は海軍を悩ませ続けていたが、幕開けがあるのならば終焉も必ず訪れるのだと、この場で確かに示されていた。尤も、それはその海賊王と称された男とこの火拳と称される男の関係もまた無くしては考えられぬのだが、その事を女は未だ知らない。


とにかくも、男は海軍に捕縛された。だから女はその背に背負う正義に跪いた男を嗤いに来たという。


「私は海軍、あんたは海賊。理由なんてそれだけで十分じゃなくて?」
「それだけじゃねェだろ」


しかし、男は女の主張を否定した。


「そんなこと……」
「じゃあその表情はなんだ」


そうして言い逃れは出来ないとばかりに追及された言葉から、女は自分の顔がひどく苦渋に満ちた表情をしていることに気付いた。紡がれる言葉とは裏腹に、笑みは表情からすっかり抜け落ちている。まるでこの世の絶望を一身に受けたかのように、辛く哀しげな表情をしている。


それが海軍将校という立場の仮面に隠れていた本音なのだと、何を言わずとも物語っていた。それは女が最も秘匿しておきたかったはずのものであり、決して陽の目を見るはずではなかったのだと、言外に語っていた。


――この場には黒電話虫もいなければ監視用の電話虫もいない。それはある人物の好意によって為された紛れもない確かな事実。何を語ろうにも公式な情報として残るはずもなく、互いが語らなければ内容は闇の中へと葬られることだろう。


利己も打算も存在しなくてしなくて良いのだという事実は、女から重たい本音を引き出した。行きどころなく渦巻いていた感情が洪水のように押し寄せては溢れ行く。一度外れた箍を戻せる訳もなく、女は溢れた一切の感情を目の前の男に全てぶつけた。


「――あんたを捕まえるのは、この私だって言ったはずよ……!」


海楼石で出来た檻を乱暴に掴んだ女は、檻の中にいる男に向かって叫んだ。遮る檻さえ無ければその胸元に掴み掛かってしまいそうな程の剣幕で、男に言葉を投げつける。しかし女の叫びに怒りは感じられず、それどころか悲痛な叫びのように聞こえるほどくぐもった音で続きを呟く。


渦巻いていた感情とは男への怒りではなく、やるせない自分への怒りと悲しみだった。


「それなのに、どうして、あんたはこの私以外の、それも黒ひげなんて名もないような海賊に捕まるのよ……」


海楼石に能力の一切を封じられ、吐き出しても足りない苦しみに溺れ。檻に手をついたまま、女は地面へとへたり込む。細く狭い肩をなおいっそう細く小さくするように背負う白き正義もまた、女を嘲笑うようにその字面を歪めて地に伏す。


崩れ落ちた女を見て、男もまた居たたまれない気分になっていた。正直に言ってしまえば女の行動は男にとって怪訝なものでしかなく、しかし幾度の対面でいくらばかしは女を知るからこそ困惑の限りを尽くした。言葉を交えるほど親しき仲ではなくとも、ただ見捨ておけるほどの仲でもない。女の震える肩の細さは、賞金首の海賊と海軍将校として刃を交える時には決して気付かなかったものだ。その双肩にのしかかる重責を悉く耐えては悟らせないでいたに違いない。


――ああ、そうか。


己がここにいるということが、女が積み上げてきたその肩書きを崩してしまったのだと気付いた時、男は無意識の内に言葉を紡いでいた。


「……悪い、」
「この馬鹿! そんな事言う暇があるなら脱獄の一つくらいしたらどうなの……!?」
「……いや、それ、海軍がいう台詞じゃねェよ」
「いいのよ、そうしたら今度こそ私があんたを捕まえて処刑台に送ってやるんだから」


女の言葉は矛盾に満ちていた。捕まえると言いながら脱獄せよと言う。海軍でありながら政府に失態を犯させることを願うような発言をするも、海軍として海賊を捕まえるとも発言する。本来ならば矛盾に満ちた言葉が会話として成り立つ訳もなく、ただこの女と男であるからこそ会話が成り立っていた。


そうして鼻で笑うと女は少し持ち直したように監獄の中にいる男を見やった。
その瞳に灯された強い意志を垣間見た男は、思わず瞠目する。身を縛る海楼石の存在すらを忘れ、思わず身を乗り出そうとした男は、女の意志を察した上で女に問うた。莫迦な真似は止せ、言外にそう訴えながら。


「……おい、何をする気だ」
「私は私の正義を貫く、ただそれだけよ」


しかし女は男の言外に含まれた意志を察してなお、灯した意志を覆すつもりは毛頭なかった。何故なら、それこそが女の正義そのものだったからだ。


海軍の正義とは海の強奪者を駆逐し一般市民にとっての安全を保証するものである。海軍に籍を置く者達ならば大抵の者達がそれを己の正義として掲げているに違いない。しかしその正義とは既製された大衆用の正義であり、己が信念に従い創造された正義でもない。己の信念に従った上で海軍の正義を己が正義と認めるのならばそれも良い。また道半ばにしても貫きたい己が正義の為に、海軍に反旗を翻すも良い。


そして彼女が掲げる己の正義とは――。


「私が捕まえるまで死ぬんじゃないわよ」


重たい音を立てて扉が閉まり行く。男は女の背に掲げられた正義の二文字が見えなくなるまで、その背をひたすら見送った。


処刑まで、後七十二時間――。




己が正義を見極めよ





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