殆どは吐息に消え、僅かに残った音ばかりが喉を震わせて彼の名を紡いだ。不意に零れる溜め息よりも浅く、霧散して行くまでの間があるかも危うい切なる声。そして気配に敏い彼の人であっても決して気付かぬ程か細いそれは、私の心情全てを表しても足りぬ程色を詰めた、それ故に無色の音でもあった。例えるのならば雪の結晶が吐息に淡く溶け行く様の様に、静かに閑寂として寂寥を感じさせる様な音。正確に論ずるのならば音無き音であるのだろうに、それでも聴こえぬ音は深く深い心の芯を打つのだ。聴覚の感ずる所では決して聞き得ぬ高尚な音色であるが故に。


触れる事は決して叶わぬ。今一度触れてしまえば、私は目に見えぬ程細かい粒子となって風に攫われてしまうだろうから。その尊い温もりは、汚濁にまみれた身にはあまりに美しすぎるのだ。例え耳朶を劈く様な悲鳴を聞きながら、敵と認識すべし名も知らぬ者達の紅き鮮血を浴びてきた時が同じであったとしても、彼は根幹からして私とは異なる。
彼の人は滑らかで一点の曇りも無い美しい漆、落としてはならない究極の至高であるのだから。


ああ、どうか目覚めてくれるな夢の方よ。
夢の中でさえ貴方を染め上げる君には到底叶わぬものだと知っているのだから、心眠る今だけはどうか私のものであってくれよ。心もいらぬ、ただ貴方さえ生きてくれていれば他に何を望もうか。否、本当の卑しい心地を知れば、その全て欲しいと叫ぶ己があるけれど、それは心の深くに消し去らんとて胸に秘めるのみにせんとするから。
だから今、こうして貴方の名を音無く呼ぶ事だけは許してはくれまいか。名を呼ぶだけの今暫くの時を私に任せてもくれぬか。鋭く厳しい中にも確かに存在する優しげな表情を知る我にどうか慈悲の時を与えぬか。


(土方さ、ん――)


ああ、でも、望まぬと言ったこの心は、ただひたすらに彼を求めてしまう愚かしき心でもあり。護るはずの彼であると知りながら、愚かであると知りながら、欲する我が確かに存在するのだ。恋と呼ぶも浅ましい心地であれ、かくも自身を疎かにして貶めるものであるのか。


くゆる紫煙の香りは胸を締め付けては矮小な鼓動すらも打ち止める。苦く甘い貴方の香りが思考の一切を絡め捕る。いっそこのまま鼓動を完全に止めて殺してはくれまいか。この身がやがて秘められた戦場で果てるであろう事は間違いないけれど、万一その手で逝く事が出来るのならば私は喜んでこの身を差し出す事だろう。剣を握る指先はおろか、髪の毛一筋までに残る肉を断ち切る生々しい感覚を、私の欲望のみで覚えさせてしまう事に罪悪感を覚えずにはいられないだろうけれども。


―――それとも。


(ミツバ――)


それとも、ああ、いっその事その命、この手で断ち切ってしまおうか。ただ一言の名すらを呼ばれる事さえないのだ。夢見の御身すらも僅かな一時すらも与えられぬこの身がひどく恨めしく、またそれすらも与えぬ貴方がひどく恨めしい。死してなお、貴方の心を掴んで止まない彼の女性が恨めしい。
募る想いに絡み取られ行く身にもどかしさを感じた事がないとは言えない。自由にならぬ人の心を縛る術などありはしないと知識にあろうと、焦がれる心地に見合った見返りが貰えぬと嘆かない事がなかったとは言えないのだから。


だから、この身の自由が為に貴方を殺めてしまおうか。君亡き後に私がおめおめと生き長らえられる訳もなく、当然追い腹するとあっても、だ。ただ刹那の自由の為にその命の花、散らせてしまおうか。今ならばきっと、苦しみもなく逝けるだろうから。



――しかし、結局のところ、そんな事を私に出来るはずがないのだ。愛していればこそ私は矛盾の挾間で苦しみもがき、そしてなおも深く溺れ行く。満たされぬからこそ焦がれて止まぬとは、なんと皮肉な事か。


だから私は吐息に溶かして貴方の名を呼ぶ。

愛してます、その言葉を呑み込んで。




夜魄が彼の名を幾度と囁き





(091212)
戀の至極は、忍ぶ戀と見立て申し候ふ(『葉隠』より)
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