水面に映る己を明鏡止水の想いで見るに叶った事が果たしてあっただろうか。
いいや、雫一つ落ちれば歪に形を変える儚き鏡であれば、醜き真実さえも歪めて空蝉の如く美しき夢を見せてくれるのではないかと淡く脆い願を掛けた程、私にそれが叶った事はない。鏡を歪めてまで己を直視する事を避けた。勿論、それは春の夢よりも儚く閑かな淡雪の如き夢想であると突き付けられるが為に、私は自己の偽る事を止めざるを得なかったのだけれど。
だから結局のところ、私は虚心でいられた事など一度たりともなかったのだろう。


着物をはだければ、戦場で幾太刀を浴び、また浴びせてきた事の分かる刀傷が姿を得られよう。傷痕として残るだけでは飽き足らず、今も癒えきらない生々しい傷が紅い血に滲んだ包帯の合間から垣間見れる。明日は更にこの身に刻む傷も増えるのだろう。嘗て白かった指は刀を握る故に無骨な指へと変わった。明日はこの指先もまた血を纏い、清冽とは遠く離れた地上の地獄へ舞い降りるのだろう。
黒髪は陽に焼け艶を失い、櫛を通したところで蝶々髷ももう結えやしないのだろう。否、結える様な娘時代はとうに終わったか。結局のところ、あれを結う事の出来た穏やかな娘時代は流星の消え失せるよりも僅かな時ばかりだった。


「土方殿――」


乳白色の薄汚れた天幕を潜り抜け、膝をついて私は彼の名を囁く。眉間にしわ寄せして気難しい表情をして座していた彼は私の姿を認めると大きく嘆息した。彼もまた疲労困憊しているのであろう。連日連戦の中で指揮を取っては孤軍奮闘している。私達の隊が未だ勝利を上げているのは偏に彼のその戦術に長けた知力のお陰だった。


剣を振るうだけならば誰にでも出来る。しかし、剣を振るうに値する覚悟を持てる者は極少ない。己の意志の為に人を斬る事が出来るか否かは総て覚悟にかかっているのだ。中途半端な覚悟程見苦しいものはない。振るう剣の前に倒れた者達を背負い、どこまで高みへと登れるか。私達の剣を振るい目指す先とはただその一点に尽きるのだから。
更にその覚悟を背負った者達を纏め上げられる者など、思考の及ぶ範囲内にある事が奇跡に思われる程貴重なのだ。緻密な作戦を立てられるは当然、臨機応変に対応出来る柔軟な思考力、人を纏め導く事の出来る指導力、ありとあらゆる能力を求められる。何れか一つを持つ者は数多くはなくとも有り得よう。しかし総てを兼ね備えた者とは蝦夷から薩摩までを身一つで旅に出たとしても見付けられるとは限らない。


それを出来るこの男とはそれ程までに貴重なのだ。それ故、私は彼の後を追い、命もまた共にする覚悟にあった。


「明日は暁頃の出陣になりましょう」
「ああ、分かってる」


私の言葉を簡単にあしらうと、手を瞳に当て、そのまま彼は空を仰いだ。閉じられた瞼の向こう、置かれた手の先、天幕と壁を乗り越えた遥か先、彼はいったい何を見ているのだろう。明日の作戦を頭の中で繰り返し反芻しているのかもいざ知れず、ここから遠く離れた京を、或いは離れた仲間を思いやっているのかもしれない。


「――なあ、てめえは女だてらによくやった」


だから、という言葉が正しいのかは分からない。ただ、不意に言われた言葉は、私の前では意味を成さなかった。どうして彼がそんな事を言うのか分からなかった。
身を僅かに乗り出しては彼に問う。低めに出していた声が本来の高さで響くも気にしてなどいられなかった。今更ながら私を否定しないでほしい、それが紛れもない本音だった。


「――何故、今それをおっしゃりますか。私は武士として生きる際に、もう今となれば遠い昔に女を捨てました」
「だがな、もうこの戦は俺らが負けるだろうよ」
「そんな事……!」


思わず絶句せざるを得なかった。この人は、何時だって相手の十手先を読んでいた。先読みが外れた事は殆どなかった。
私に大局を読む程の技能はなかったけれども、私達が終始劣勢であるという事ばかりは誰の目にも明らかだった。幾度星を取ろうとも果てる仲間の数は減少する事を知らず、また物資は届かない。今日の勝利が明日に繋がるかも不明瞭。
だから、彼が負けると言うのならばそれは確かな事なのだろう。そんな事をわざわざ曰うとは思ってもみなかったのだけれど。


「俺は此処で死ぬ」
「私もまた此処で討ち死にする所存に御座います」


それでも、私は彼を追ってここまで来たのだ。彼はここで果てるのだというのならば、私もまたこの地で討ち死にしよう。最期の戦となるのならば、彼の人の背に後ろ傷など出来ぬ様に私が刃になろう。この拙き腕であったにしても一瞬ばかりは盾にもなろう。
それはとうの昔に、それこそ女を捨てる折より胸に秘めてきた事だ。今更戸惑う訳もなく。

――しかしそれすら私には許されないらしい。


「んな事許さねぇ」
「何故ですか! 私には武士として死ぬ価値もないと……?」

「そうじゃねぇ」


ではどうしてと紡ごうとした音は、吐息に消えた。突然手を引かれ、乗り出していた四肢は彼の方へと傾いた。安定を得られなかった身体は当然の様に彼の胸へと倒れ込み、空いていた手は自身を支える為に彼の衣服へとしがみつく。皺が寄ってしまう事を気にしてなどいられなかった。
ただ何事かと半ば反射的に彼の人を見上げれば、そのまま吐息ごと唇を奪われた。熱い吐息が交わり、その漆の様に篤い瞳と視線が交わる。指先に込める僅かな力で必死に彼の衣服を引けば、何時しか後頭部に回っていた手はより一層強く私を掻き抱く。深く貪る様に熱を確かめ、そして劣情に思考は支配される。
なけなしの理性の抵抗ですら、たかが一言でいとも簡単に崩れ去る。それは砂上の楼閣なんて生易しいものではない。まるで熱帯に散る六花の様に、形すら成さなかったかもしれない。


「惚れた女一人くらい生き延びて貰いてぇんだよ」


ああ、この身はこうも簡単に堕ちるのか。




さしむかふ 心は清き 水かゞみ




目覚めた時、既に彼の人の姿はなく。
ただ一句のみが書かれた薄紅色の和紙が残されるだけだった。ふわりと薫るのは間違いなく彼の残り香で、その和紙にぽつりぽつりと雫が染みを作る。


「嘘吐き」


だったら私も共に死なせてくれれば良かったのに。





(091122)
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