生まれは北の小さな農村だった。冬になれば雪に閉ざされ、年貢を納めてしまえば越冬するに十分な農作物も穫れやしない様なやせ細った土地。私は確か九人兄弟の下から二番目だったと思う。一番下は二つ離れた弟で、けれど三度目の冬を越す事無く呆気なく逝ってしまった。やせ細り蒼白い顔をした弟が白い布団で寝かされているのを見た時には、幼心にも今生の別れを惜しむ様に涙が出ていた。
しかしその弟の存在を記憶の彼方へと追いやらなければ、私達はそれこそ弟の待つ地へと行かなければいけない。だから働き手として役立つ能力も無いまま私は身を粉にして働いた、働かされた。陽の出よりも前に綿の薄い布団から出て、一番星が瞬くまで畑に出て。顔は泥塗れになり、小さな椛は皹を起こしても足りない程働いた。それだけ働いても腹一杯の白飯を食らう事は愚か茶碗に一杯の白飯すら見る事すらなかったけれど、弟が逝って二つか三つの冬はどうにか凌いだ。


けれどその翌年の冬は、納める年貢分すらもろくに穫れない程の飢饉が起きた。大地が揺れ、山からは灼熱の火が民を襲ったとも聞く。まるで何者かが怒り狂ったかの様な惨状を見せたのがこの年だった。秋になれば頭をもたげる筈の穂は、冷夏の影響で実りを知らず、なけなしの力で天へと背を伸ばしていた。年貢を免除すとの触れが上から出されたけれども、そもそも穫れぬのだから当然救済策としての意味を成しはしない。雑草を湯がいて嵩を増したところで、粟や稗が足りなければ腹も膨らまず、元々血色の悪かった手は骨が浮き上がる程にやせ細って行く。このままでは誰一人として冬を越せやしないだろう。


だから、飢饉を凌ぐための口減らしに私は遊廓に売られたのだ。三人いた姉でもなく私が売られるという事実は、口減らしが当たり前だった時代であったとはいえ衝撃は少なくなかったと思う。幼くして父母とおそらくは今生の別れをせねばならないという事は、死なば諸共と言わずとも弟の姿を思い出させもしたのだろう。ただ、女衒に手を引かれ故郷を後にする時に何を思ったのか、今はもう思い出す事もないけれど。







「これでもわっちは花魁でありんしたよ」


すっかり忘れていた郭詞でふと音を紡いでみれば隊長の不愉快そうに上げられた面の、眉間の皺を一つ増やした。今回のその皺の原因は私の生前が遊女であった事実に対してか、椅子にもたれて何をするでもない私自身に対してか。――おそらくは後者だろう。生前の出自を気にする様なお人ではないけれども、休憩と書いてサボタージュもしくは逃亡と読まれる副隊長が残した書類が目の前で山となる状態で、与えられた仕事は終えたとはいえ部下が暇をしているとなれば、眉間の皺も増えると言うもの。何も言わないまま翡翠の瞳が再び書類に向くのを見てから、私は彼から視線を外して書類はないけれども同じ様に俯いた。


そういえば、何故私はこうも過去を回想しているのだろうか。どうして今になって生前の記憶を取り戻したのかは分からない。尸魂界へやって来た時に生前の記憶は水に流した様に頭から抜け落ちていたというのに、今更。
ただ一つ確かなのは、生前を思い出してしまった今、私はただ過去を貪り続けているという事だけだった。







――私は運が良かった方だったと思う。


売られた場所も生来持ち合わせていた器量も、遊廓という場所で女が生きて行くには好条件だったのだから。こけた頬は今までに比べれば充分過ぎる食事で肉を得た。絡まりきった水分の失われた髪は、絹糸の様にしなやかで艶のある黒髪へと変わっていった。細胞の一つ一つが与えられる全てに喜びを感じているかの様に、売られてから日が経つ程、薄汚れた子供は小さな娘へと姿を変えた。


禿を経てからは茶や華、管弦から舞までもを叩き込まれた。それは遊女として店の顔となるであろう事を約束されたに近いもので、私は他の新造達がこれから登るであろう位置を高く越えた場所から始めたのだ。
あの痩せた農村では決して学び得なかった学を身に付け、そうして年頃になって水揚げをすれば、私は遊女となった。うんざりとするまで着飾り、口先ばかりの話術を巧みに客を喜ばせる。桜の紋様に目映い金糸の刺繍が入った唐紅の豪奢な着物に、紅玉と金剛石のあしらわれた簪を差す事に違和感を感じなくなったのは何時か。客よりも上座に上がり、客を待たせる様になったのは何時か。半ば当然の様に遊廓でも一二を争う花魁まで上り詰め、何時しかの私が私の禿をしていた時には唖然とした――。







「何故今更過去を思い出す?」


行き着いた思考に呆ける様な表情でもしていたのか、隊長が口を開いて私に話し掛けてきた。今も山になっている書類を前に生真面目な隊長が手を抜く様な事は決してないので、余程私の表情が酷かったのかもしれない。くだらない身の上話に付き合って下さる程彼の人は暇ではないけれども、部下に対してまでも優しいお人だから。


「何故でしょうね」
「かえりたいか」


かえりたい、帰りたい、還りたいか。
あの遊廓へかえりたいか、あの寂れた山村にかえりたいか。
意味はいくらでも取れる言葉だったけれど、その問い掛けの答えはどの意であったとしてもまさしく否だ。


身を着飾る錦の着物にそれを求めて滝の様に落ちる金子。夜毎響く三味線の音に、消える事のない楼閣の灯火。常世でありながら現から遠く離れた幻想は、春の夜に見せる夢の如き美しさ。生きてそれを生業にしていた時は、他にすべき事がなかったからこそ良しとしてきたかもしれない。あの山村で暮らしていたのなら決して手に入る事の無かった絢爛とした生活であり、野垂れ死んだとしても可笑しくはなかった売られた身では十分過ぎる生き方であったのだから。


けれど我が身を落籍すとの申し出を総て拒絶したのさえ、それを否定せずに否定させざるを得なかったからではないか。遊女である己を全否定したく、けれども否定してしまえば私は己の存在意義を失ってしまう。たったそれだけの理由ではなかったか。


――ならば今の私の存在意義とは一体何なのだろうか。遊女であった肉体はとうの昔に滅び、今魂魄となった私の意義は尸魂界にて存在するのだろうか。どの様に私は認識されているのだろうか。暗雲渦巻く脳内は雷鳴を轟かせる勢いで甚だしく展開されて行き、そうして不意に吐いた言葉は隊長の問いに答えようとはしていなかった。


「――源氏名をですね、胡蝶と」


ひらりひらりと風にたゆたいながら人の手に触れられる事を拒む娘と言われたのが名の由来だった。そしてまた、花魁となってからもその名は広がり続けた。二心どころか心一つありはしないというのに、その心を触れるばかりか見る事も能わずと一夜の客が言うからだ。夢に真を求める事を愚かと知りながら夢を追い続ける人々に、この胸中を知る術を持つのならばともかくも、どうしてその様な謂われをしなければならないのかは分からない。尤も、名の意味はそればかりではないのだけれども。


脈絡のない言葉に怪訝な顔をして私を見詰める隊長、その白銀の髪が揺らめく。それに気付きながらも私は敢えて言葉を止めなかった。かつては紅を引いていた唇は客を誘う必要もなくなったというのに薄紅に色付く。空気を震わせるように静かに音を紡げば、鈴の鳴る様であると謳われた声が彼の人の鼓膜を打つ。


「隊長も褥の上で私を舞わせてみますか?」


そう言葉を紡ぎながら、けれども内心で自嘲せざるを得なかった。何故私は彼を試す様な真似をするのか。こうして自ら話す以外に生前の私を知る術等、いくら隊長格であっても無いというのに、今更過去を持ち出して私は隊長にどうして答えてほしいのか。是非の何れか一方を選んだとしても私はどちらも許せやしないだろう。それを知りながらも何故私は彼の人へ問う――?


翡翠の瞳を見据えて音を逃さぬ様に答えを待てば、その瞳は穏やかな笑みに歪んだかと思うと、挑発する様な光を宿して私を絡め捕った。僅かに呼吸が詰まり、瞬く事さえも忘れてその瞳を食い入る様に見つめる。緊張の糸は切れる寸前までに張り詰め、今一度撓む事があれば空間全てが崩れ壊れてしまうのではないかと思わずにはいられなかった。


ふとその翡翠の光が和らぎ、隊長は相貌を崩した。手に握られている筈の筆が何時の間にか手から離れていたという事に私は気付かない。過去ばかりに捕らわれ、死後の軌跡を全て記憶の彼方へと追いやっていたのだから仕方ないのかもしれないけれども、大きく齟齬した自身の精一杯だったのかもしれない。


与えられた言葉に、私はただ身震いをした。


それは歓喜故か恐怖故か。


「馬鹿言え、お前は戦場でいつも舞っているじゃねえか」


そうして死神としての居場所を手に入れた私は、守るべき銀の背を追い掛けながら今日も斬魄刀を振るう。その翡翠が輝きを失わない限り、私の居場所は他でもない此処にある。十番隊に胡蝶有りと謳われるのはそう遠くない日の事――。




てふのいとにほひたるは





(091024)
*難読そうな漢字とその読み。
椛/もみじ 皹/あかぎれ 女衒/ぜげん 落籍す/ひかす 褥/しとね 撓む/たわむ

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