彼の喉元に突き立てた銀白色の刃が血を求めて鈍く光っているのが美しいのか、喉元に白刃を突きつけられながらも凄艶なまでに笑みを浮かべている彼が美しいのか。緊迫感が差し迫る様子を確かに理解している筈だというのに、思考を占めるのは別の感情だった。何が美しく何が醜かろうと、任務を遂行する為には余計な感情でしかない筈だというのに、それでも私はその光景を焼き付ける様に両のまなこを大きく見開いていた。


命の危機に瀕している筈の彼に余裕綽々といった表情で見上げられ、私の刃を握る手が僅かに緩みそうになるのを必死に押し止める。いくら女の細腕であるからと言っても、馬乗りになって刃を突き付けるのだから、有利なのは確実に私である筈だというのに。彼の刀は手の届かない場所にある。他に武器を持たないのだから、不利なのは確実に彼である筈だというのに。どうして彼は余裕な表情を崩さないのだろうか。


有利な内に早く彼を捕縛してしまうべきだったというのに、見開いていた瞳を細めて私は低い声で彼に問いていた。


「貴様は何故笑う?」
「てめえは真選組の密偵だろう」


その言葉を聞き再び目が見開きそうになるのを必死に堪え、思わず肩が揺れるのを誤魔化した。それでも止めきれずに全身から血の気が引いて行った瞬間は、冬の身を切る様な風に長時間晒されても足らない程、気味の悪い青白さをしていたやも知れない。指先は熱を失い、其の所為で握った刃が僅かに緩んでしまったのを確かに感じていた。


何故この男はそれを知っている。
いや、どうして知ったというのか。


この男は攘夷志士に限らず江戸の町で知らぬ者はいない程、名を轟かせている過激派攘夷志士だ。女物の派手な着流しに煙管を加えた隻眼の男。それだけ知られた特徴的な風貌は人目に付きやすく、またその過激な活動に同じ攘夷志士といえども危惧する者も多い為、幕府にしても志士にしても敵も多いのだろう。


そんな、テロという吹き荒ぶ風で江戸だけでなく日本という停滞した風車を回そうとしているこの男を幕府が見逃す訳がなく、真選組は常々動向を探っていた。勿論、私もその一人。闇夜に身を隠して次なる闇に渡る身に性別など必要も無かったが、真選組隊士と素姓が知られないという点においては女である事の利点が勝った。今までの結果を鑑みても、私を真選組隊士と思う輩は誰一人いなかったのだから。ある任務では形無き一陣の風とまで囁かれた。その風の生まれる場所は真選組の、私の慕う彼らの元であると誰が想像したか。


「貴様の行動を危惧する攘夷志士とは思わないのか」
「調べねぇでも飼い慣らされた幕府の犬なぞ分かるさ」


女がいるとは知らなかったがな。
そう言いながら、男は喉を鳴らす独特の笑い声を上げる。


けれども、男は他の志士達がいくら足掻こうとも辿り着けなかった場所へとあっさりと歩みを進めてしまった。私を小さなつむじ風と見下し、吹き荒ぶ風として掻き消そうとしている。捕らえられる間近であってさえ、この荒々しい風は猛る事を忘れやしないのだ。風の死す場所は風の生まれる場所ではないのだと、どの様な風であれ形無き風が元へ還る事はないのだと男は言外に言い募るのだ。


そのやはり失わないその余裕、果たしてどこから来るのだろうか。彼を取り巻く幹部陣は全て外へと追いやった。それぞれもまた厄介な存在ではあったけれども、あれだけ我の強い存在を纏め上げているのは偏に頭がこの男であるからだ。だから私は標的を男ただ一人に絞って定めてきた。


しかし、失われない彼の自信に自身のペースを崩されて行くのを感じていた。呑まれてはいけないと思う意思と裏腹に、一度外れた歯車は元の姿に戻る前に一層の狂いを生じさせていく。


そうして愚かにも私はその狂いに易々と呑まれてしまったのだ。狂いに自身の身体を引き裂かれそうになっているというのに、それを元に戻す手段を講じるよりも先に意識は呑み込まれて行く。私が完全に呑まれてしまったところで、男は鮮やかに主導権を取り戻してしまった。


一連の流れはほんの一瞬の間に起きた。ぐいと腕を引かれたと思うと突然視界が逆転する。座敷と男を見下ろしていた筈が、瞬き一つする間もなく天井と高杉に見下ろされる事になったのだ。手にしていた筈の刃は視界の届く範囲から消え失せ、私は唯一の身を守るすべを失う。
それに気付いた私の表情を見て高杉はまたにやりと笑った。私の命は彼が握っているのだと、生殺与奪の権利は今や彼の手の中にあるのだと見せつける様に。――いや、元から私の手の内になどなかったのだ。端から彼に呑まれていた私に彼の首を取る等出来はしなかった。


それでも、私の持つ情報を攘夷志士に、それも過激派と呼ばれる高杉に渡す訳にはいかない。どれ程拷問されようと口を割る気は更々無いのだから、ならばいっそ一思いに殺してくれれば良い。風は彼の地に戻る事叶わず敵陣にて花を散らすのみであったけれども、役立てた今までを思えば悔いもない。


「殺すなら早く殺したらどうだ?」
「なぁ、攘夷志士が幕府の犬を飼うっつうのも乙なもんだと思わねぇか?」


けれど、高杉は私を殺そうとはしなかった。
私の手首を痛い程に掴み上げ、その苦痛で表情を歪めた私にまた笑う。彼の手の中ですら掻く事の出来ない己を嘲笑しているのかと、悔しさから彼の隻眼を睨み付けてやれば、高杉の表情はまた面白そうに歪んだ。そうしてそのまま私の視界から消え失せたかと思うと、僅かに熱い彼の吐息が首筋の薄い表皮一枚を撫で上げ、私の背筋は思わず凍った。その様子に高杉は繰り返し笑う。笑い声が皮膚を通じて鼓膜を震わせ、脳裏へとその姿を焼き付ける。人に懐かぬ獰猛な獣を腹に飼うこの男は一体何をしたいのか。


「てめぇは俺のもんだ」


血に飢えた獣は喉元に食らいついてはその血肉を啜るのか。本能のままに貪り喰らう事が唯一の悦楽なのか。首筋に熱い刺激を覚えて私は背を大きく仰け反らせた。高杉と自分を隔てる境界が徐々に曖昧になっていく様を感じて、頭はとうとう思考を捨てざるを得ない。そうして失せゆく意識に浮かんだのは風を生む懐かしくも尊き場所か荒れ狂う嵐の中か。




楔をその胸に穿つ




(てめえに殺されんだとしたら、また一興だったろうよ)


高杉がそう思っただなんて私は知らない、そして知りたくもない。





(091010)
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