朝、一般生徒が登校するよりも早くに私は並盛中学校の校門をくぐり、いつもの様に応接室へと向かう。
けれども応接室の扉を開ける事はなく、その前でただ静かに頭を下げた。
誰もいない廊下で一人扉に礼をしたところで何が変わる訳でもないけれども、これは私のけじめだ。


三年間身に付ける事になった風紀の腕章は洗われて自宅の机の上に綺麗に置かれている。
昨日まで必死に整理していた膨大な書類の山にも今日から追われる事もない。
次代に引き継ぐための用意は全て整えたから、後任がやってきてもスムーズに引き継がれるだろう。
そして、この制服に袖を通して並中へ通うのも今日で最後なのだ。



――卒業。



いつか必ずやってくる日であったのに、決してやってくる事のない幻であるように思えていたのは彼の存在の所為かもしれない。
並盛の秩序と自ら号する彼が並中を、引いては並盛を愛する限り、卒業という単語からは掛け離れている事を、平凡極まりない自分にも重ねてしまったからかもしれない。
日々は確かに今日という日へと時を進めていて、それを頭では理解していたのに感情は追い付かなかった様だった。


結局、この想いは胸にしまい込んだまま、私はこの先の人生を歩んでいこうと思う。
そして、きっと私は街中で似たような黒髪を見つけるたびに振り返って彼の姿を探すのだろう。
彼がこの並盛を愛している限り、私がこの並盛で暮らしている限り、再び出会う事は決して難しいものではないはずなのに、何故か私は今日が最後の日なのだと確信していた。

もう、彼と逢う事はないのだ。

その想いは、応接室の前を離れても式が始まった時でさえも私の脳裏から離れようとはしなかった。
忙殺されていた整理の付かない感情が今になって溢れだしてきた、そんな状況。
しかしながら開式の挨拶に始まり、国歌斉唱、卒業証書の授与、と毎年この時期になると繰り返し行われる式は、私の感情に関係なく着実に進められていった。
式が進むに連れて段々と、並中を卒業する事を友人との別れを涙する生徒が増えてくる。
啜り泣く様な音が静かに響き渡り、それがまた他の生徒の涙を誘う様で、隣に着席していたクラスメートもつられたように嗚咽を漏らし始めた。
ハンカチを目元に当てて涙を拭っている。


そんな光景を黙って見ていると、不意に解決の糸口を見つけたような気がした、――私も悲しいのだろうか。
ここを卒業する事によって彼との接点が限りなく零に近づく事が、私の思考であるならば零になる事が悲しいのだろうか。
整理をしてけじめを付けた感情と似て否なるそれは私の中で忘れ去られた悲哀の感情なのだろうか。
思い返せば、泣く事を私は無意識に避けていた気がした。
残念ながらそう気付いたといえども涙を流すにためには、何かがまだ足りない様なのだけれども。








式は厳かに進められて行き、私は感情が整理し切れないまま、在校生から卒業生へと名前を変えた。
クラスで最後のホームルームも終え、後は学校を去るだけとなる。
校舎の外へ出れば、校庭は別れを惜しむ卒業生がそれぞれ集まって輪を成していた。
写真を撮る生徒や泣きながら抱き締め合う生徒まで様々だ。
いつもと変わらなければ応接室にいるであろう彼にも別れの挨拶をしに行くべきなのだろうか。
そんな思考が不意に頭を掠める。
けれども数拍の後に、私は頭を振って否定した。
あそこにはすでに別れを述べた。
そもそも彼に会わないため、自分にけじめを付けるためだったのだからわざわざ水の泡にする必要はない、と。
そのまま敷地の外へと足を進めよう、そう思ったときだった。



「雲雀さん――」



胸に付けた造花が風に揺れている。
同じく風に吹かれた学ランの袖には風紀の腕章はない。
校門のすぐ傍に立っているのは紛れもない雲雀恭弥であるというのにその二点が彼である事を否定しているようだった。
彼は卒業しない、今朝そうして思考していたのは誰だっただろうか。
確かに、昨日までそんな素振りは一度も見せようとはしなかった。
けれどもその出で立ちは否定のしようもなく――。



「卒業、されたんですか?」
「やる事が出来たからね」



しばらくイタリアへ行く、私の言葉を肯定した後そう続けた彼の言葉を何を考えるでもなく咀嚼した。
ああ、これが私の確信の原因だったに違いない、と。
彼の穏やかな笑顔というものを三年間を通しても見た記憶は数える程しかなく、今の表情もこれから起こるであろう事に楽しみを隠せないといった風合いだった。
理由が何であれイタリアに馳せる想いは強いのだろう。



これが別れというものなのだと、意味もなく納得している自分がいた。
並盛の地にいれば多少の縁も存在したかも分からない。
けれども、今日この時で私達の歩む道は離れてしまったのだ。
直接別れを告げたくはなかったのに私は彼に別れを述べなければいけないらしい。
しかしそうして口を開こうとした私を遮るようにして薄い封筒を取り出した。



「ここにイタリア行きのチケットが二枚ある」



私は彼が何を言っているのか分からずに瞳を大きく見開いた。
彼はつい先程イタリアへ行くと言ったばかりで、そのチケットはその為のものなのだろう。
けれども彼が海外に渡るためにチケットは二枚も必要はないはず。
二枚の意味は?



「僕が君に選択肢を与えるのはたぶん最後だ」



それは、そのチケットの一枚は私のため、という事なのだろうか。
イタリアへ付いてこいと言っているのだろうか。
思わず彼に視線を合わせると、吸い込まれそうな瞳は私の推し量る事の出来るかぎりでは真実を述べているように見えた。



卑怯だとは思わないのだろうか。
今まで選択肢を与えようとしなかったのは彼であるのに、人生を決めるような岐路に限って私の意志を尊重しようとするなんて何の戯言なのか。
それなのに、考える猶予を与えず今この場で答えを出せと言うのだ。



――迷わないわけがない。
このまま彼について行けば、私は今とはまったく違う道を歩む事になるのだろう。
今まで彼を通じて垣間見てきた世界に足を踏み入れることになるのだ。
そこは、何のスキルも持たない私が生き残れるかも怪しい。
風紀委員という多少なりとも平穏から離れた場所で生きてきたとも言えるが、それでも私は平凡極まりない人間なのだ。
全てを捨てて彼に付いて行くことが果たして正しいのだろうか。
そう悩まない訳がないのだ。



「私は――」



彼に向けた瞳を外して、私は言葉を紡ごうとした。
彼の学ランが微かに揺れるのが見えたような気がしたけれどもそれは気のせいなのだろう。
彼に届くのではないかと思う程強い鼓動を鳴り響かせている私と同じ思いを彼がしている訳がないのだから。

緊張している為なのか恐怖の為なのかもしくは喜びの為なのか、震える声を感じながら続きを告げた。









「――地獄までもついて行きます」



けれど迷うはずもないのだ。
私に迷える訳もないのだ。
決して言葉には出来ない想いを私はもうしばらく温める事になった様だった。
下げた瞳をもう一度彼に向ければ、彼は穏やかな笑みを私に向けていた。
涙はようやく行き場を見付けた様で、頬を伝うそれを拭う事もせずに彼の手からチケットを受け取る。
別れの為に私が泣く事になるのももう少し先になりそうだ。









拒否できないって知ってるくせに
(ところで出発は何時でしょうか)(今日の夕方だね)(あの……)




お題元:確かに恋だった
(090302)
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