苦しい、苦しい、苦しい。

動悸がひどくうるさくて、必要以上に鼓膜を通じて脳を刺激する。
シーツを握り締めた震える手が、瞳を通じて脳を刺激する。
自分でもらしくないと分かっていてもこの動悸を震えを止められない程、私は混乱の最中にいた。


「雲雀さん――」


今が真夜中で、非常識にも程があると分かっていても、私には止められない。
ひどい汗で下ろした髪がうなじに張りつくのを不愉快に感じながらもなりふり構ってはいられない。
肩が上下しているくらいに呼吸が乱れているのを知っていても、整えるだけの時間が惜しい。
椅子に掛けっぱなしにしていたガウンを震える手で引ったくるように羽織り、私は自室を後にした。


扉を開ける時間すら惜しいと思うくらいに急く心を必死に押し止めていたのだけれども、廊下を歩く足の進みが段々と早足へと変わり、最終的に一般に走ると呼ばれる速度に変わる事は抑えきれない。
頭は嫌なくらいに覚めているというのに、身体は頭ほど覚醒が追い付いてはいない様で、普段よりも動かない身体が憎らしかった。
一定の間隔で配置されている小さな明かり以外照明のない廊下は薄暗く、いつもなら気にならないというのに精神が不安定な所為かその照明がまるで鬼火のように見えた。
ゆらゆらと妖しく揺れ、十万億土の旅路への道案内をしている様ではないか、と錯覚する。


案内とは、誰、を――?
違う、そんな訳がない。


一瞬浮かび上がった思考を想像を直ぐ様打ち消して、私はかぶりを振った。
だけれども、思考はますますひどく負の方向へと向かって行き、今の私には止めるすべを持たない。
代わりに、私の足が尚一層力強く地を蹴った。


「――っ、」


胸が痛くなるのを無理矢理無視して、目の前にした扉を叩いた。
咬み殺されてもいいから彼の安否を確かめられずにはいられない。
心の大部分を締めるのは彼の事ばかりで苦しくて。
早く自分では否定しきる事の出来ない思考を打ち消して欲しかった。


「こんな時間に何だい?緊急連絡でも前もって――、柚羽?」


扉を開けながら、不機嫌そうな顔をしていた彼が最後まで言葉を紡ぐ前に、私は冷たい廊下の床に涙を落としていた。
彼の姿を見た、声を聞いただけで私の瞳から堪えようとする暇さえなく涙が零れ落ちる。
頬を伝って薄暗い闇の中へと消えていく涙を一つ一つ見送る余裕さえもないくらい、落ち続けた。
暗いので気付かれないでほしいという思いは、これほどまでに泣いてしまえばもはや無意味で、気付かれてしまったのならそれさえも無意味とばかりに嗚咽まで出てしまう。
なんて自分の心の軟弱な事なのだろうか。

目の前の彼は、彼といえども事態に付いていく事が出来ずにただ私を見ていた。
それもそうだろう、夜中に突然部下がやってきては用件も述べないうちに泣き始めたのだから。


「何かあったのかい?」


しばらく泣いていると、いや、しばらくしても泣き続けていたからか、彼は静かに私に問い掛けた。
苛立ちを表しているでもなく淡々と紡がれ、大地に染み入る水の様に私の中へと入り込んでくる。
それが理由かはともかくとして、依然として涙が止まる気配をみせないものの、高ぶった感情は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
そしてそれが切っ掛けとなったのか、感情に追いやられていた理性が主導権と取り返した様で、自身の行動を振り返って批判し始める。


「……すみません」


真実でもない泡沫に惑わされて取り乱して。
明日から長期任務ですから睡眠はしっかりと取ってください、そう言ったのは誰だったか。
たかが数時間前の事を忘れてはいないというのに、その睡眠の邪魔をしたのは紛れもない私なのだ。
薄暗い廊下にまで呼び出して、彼に何をするでもなく泣いて。
謝罪する事すらおこがましくはないだろうか。


ただしそうは思っていても、ただ謝る事しか出来ない私は相変わらず涙が床へと沈む中、嗚咽の合間からもう一度言葉を紡ぐ。


「本当に申し訳ありません、」
「――僕は何かあったのかと聞いているんだけど?」


答えにならない私の謝罪が気に入らないのか、一番初めと同じ様に不機嫌さを含んだ声で再度問い掛けられた。
けれどもこうして謝罪する事さえおこがましいと感じているというのに、言える訳がないではないか。


すべては夢が原因です、などと。

彼の人のスーツに広がる紅を止める方法を見いだせずに呆然としていた己を恨んだ。
最期まで自分の意志で彼に触れる事すら出来なかったのだ。
その漆黒の瞳が完全に閉じられてしまう瞬間を目に焼き付けたが為に、瞼を閉じる事も出来ずに見開かれたままの自分はひどく滑稽で。
消え行く温もりにすがる事も出来ずに行き場のない宙に浮いた手が馬鹿らしくて。

夢と知っていながら現実との結びつきを否定出来なかった自分の弱さが原因なのだなんて、愚かにも程がある。


「いえ、本当に何でも――」
「君が何を思っているかは知らないけど、僕は君より先に死なないよ」


言葉を遮られた、そう思うと同時に彼の口から語られたのは思いがけない言葉だった。
何一つ話していないというのに、勘が鋭すぎるとでもいうのだろうか。
予測のつかない彼の言動には少しばかり耐性がついたと思っていたものの、落ち着きを取り戻していた鼓動が以前とは違った意味で早まり始めた。
気が付けばあれほど止まらなかった涙さえ零れる事を止めていて。

早まる鼓動を数回認識してから、私は思わず問い掛けていた。


「――それは絶対ですか?」
「君は僕が草食動物に負けると思うの」


答えられたのは疑問符も付かない断言にも聞こえる問い掛け。

そうだ、雲雀恭弥この人が私に約束までしたのだ。
縛られる事を極端に厭う浮雲の彼が、私如きに。
これ以上の絶対がどこにありえるというのか。
私はそれを甘んじて享受していればいいのだ。
それがマフィアとして愚かな考えであるのは重々承知しているけれども、彼のわずかな言葉を享受して生きている今とそう大差はないのだから、一つくらい増えたところで現状に変化は訪れないだろう。


「納得したね」


欠伸を一つして自室に戻る彼の背に、感謝と明日の任務への労いをかける。
最後の最後に一瞬だけ柔らかな笑みを浮かべた彼に、緩む頬を堪え切れずに。
ああ、よい夢が見られそうだ。




夢さえもその手で切り裂いて
(儚い夢を)(力強い現実に)





(090208)
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