「――入江さん?」


時計の針は午前四時を示しており、未だキーボードを叩く音が止まらない事に何やら感じて、上司といえば上司である彼の背に静かに声をかけた。
するとカタカタとあまり明るくない部屋に響く音がひたと止まり、椅子が半回転して彼の顔が見えるようになる。
どこか眠そうなぼんやりとした雰囲気の彼は、実としてその頭の中には凡人には理解出来ない量の知識が詰まっており、またそれを最大限に生かせる能力も持っていた。
それこそ白蘭が今程に勢力を伸ばしたのも、彼の力があってこそと言わしめる程に。


「どうしたんですか、柚羽」
「何か手伝える事はないか、と――」


彼に問い掛けられ、根を詰め過ぎると体に悪いですよ、そう言いたかったはずだというのに、口から紡がれたのは別の音だった。
今こうして私が彼のもとにいるのは、彼の好意の上に存在しているので、口を出す事に何か悪い気がしてしまったから。
言ってしまってから、ああこれも彼からしてみたら余計な世話かも知れないなと、そう後悔に近いものを感じけれど、言い直す事も今更出来はしなかったので、誤魔化す様に曖昧な笑みを浮かべれば、彼は不思議そうな顔を一瞬見せた後、乱雑に積まれた資料の中から一つを取り出して、じゃあこれをお願いしますと私に手渡した。
厚くも薄くもない資料はまるで私の為に存在していたかの様で、それを手に取り、彼の脇に置いてあったノートパソコンを開いて資料を打ち込み始める。
こうして資料や書類の整理をする事は嫌いではないので、スムーズとは言えなくとも淡々とこなしていくと、それをしばらく見ていた彼も先程と同じ様にパソコンへ向かった。
そのため部屋には先程よりも僅かに賑やかになったタイピングの音が響いていた。




しばらく書類とパソコンを交互に睨んでいると、顔も向けず、手を休める事もせずに隣から唐突に問い掛けられる。


「そういえば柚羽、僕を入江さんと呼ぶのやめませんか?」
「何故ですか?」
「白蘭サンは呼び捨てなのに、僕に敬語を使われているとどうも――」


きっと白蘭が何か言ったのだろう。
隣の彼をからかう事が理由なのか、白蘭はよく意味もない不思議な回線を繋ぐから。
私には任務とその資料と称したメールしか、それもほんの数行にも満たない様なメールしか送ろうとはしないと言うのに、この扱いの差は何なのだろうか。
過度の馴れ合い等は全く持って必要ないが、標的の名前しか記載されていない時はさすがに頭を抱えたくなるもので、それくらいの下調べくらいはしてくれてもいいはず、否、するべきだ。
思考の趣旨が変わっている事を敢えて無視して、此処に来る事になった原因でもある、彼のイタリアの地で“マシマロ”を食べ続けているだろう人間に、内心で細やかな悪態をつく。

彼の質問にも、あまり穏やかとは言えない答えを返してしまった。


「あら、敬称は尊び敬う方に付けるものでしょう?白蘭は嫌いですけど、今の上司である入江さんは違いますから」


それに出張と称して逃げ出してきた、あまり交流もなかった私を匿ってくれましたから。

白蘭直属の、と言うよりは表舞台に出る事のないマフィアでも裏の、――ボンゴレで言うならばヴァリアーに近い――、任務をこなす私が一通のメールでしばらく任務放棄すると伝え、彼の下へ逃げ込んだ時、白蘭から何の音沙汰もなかったのは彼が取り成してくれたに違いない。
中間管理職と揶揄される彼が、腹痛を忍んで上司に連絡している姿がありありと思い描く事が出来、更にそれに甘えるまま図々しくも部下として居座っている自分に若干の罪悪感を感じている事も敬語を外せない要因の一つか。
いずれにせよ、敬語を変える気は今の自分にはないと告げる。

するとどうやら彼の発言の発端は白蘭が原因ではなかったらしく、不機嫌さを含んだ声が返ってきた。


「でもそれじゃいくら経っても対等になれないじゃないか」
「――対等になる必要がありますか?」


私にいつも使う敬語ではない、恐らく素なのだろう口調で音を紡ぐ彼は、いつの間にかキーボードを叩く事を止めて私を見ている。
薄暗い中、眼鏡越しに見える彼の瞳はしっかりと私を射抜いていて、些か居心地が悪くなるも、瞳を逸らせずにいると彼は続けて告げた。


「このままじゃ押しつけにしかならないだろう?」


事実が違ったとしても、上司と部下という私が作り出した関係の中では、対等と比べればいくらばかりかの歪みが出てしまう事が彼の気に食わぬ様で。
ああそうか、残念ながら彼の好意は、友や同僚に対するものではなかったらしい。
この空気の緩さは嫌いではなかったのだけれど、――結局は崩れてしまう均衡の危ういものだったとしても、もう少し楽しんでいたかったと思うのは贅沢か。


「何を、とは愚問みたいね」
「頭の回る君は嫌いじゃないよ」


当たり前か、と苦笑気味な笑顔を浮かべてから、その笑った唇が私に触れた。
伝わる温もりは私の身体を徐々に侵食していく様で。


――ああ、そろそろ夜が明ける。




天が白む頃に
(私でいいの?)(君が良いんだ)





(081130)
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