ふわりと鼻をくすぐる甘い香りに誘われ、私の双眸がゆっくりと開かれた。
けれども目醒めたばかりの私の瞳はどうにも視点が定まらず、目の前が霞んでよく見えない。
物があるのか人がいるのか、はたまた光があるのかさえもよく分からなかったが、目に映る黒から辛うじて夜であることが伺えた。

生けるものは眠りにつき、夜空に煌めく星々が高らかに歌う夜は私の一番嫌いで、そして一等好きなものだ。
闇は底知れぬ恐怖をこの身に感じさせながら安楽へと誘い、逃れようとするもその堪え難い誘惑に思わず揺れてしまう。
そして強大な力で矮小な私などいとも簡単に握り潰してしまう。
それ故に私は夜が嫌いで、それ故に私は夜が好きなのだ。
ただあの闇夜よりも深い夜を宿した瞳は、嫌いになるも何も私の全てで、誰とも知れぬ血に汚れることすら厭わないのも、全ては彼の為。
そう簡単に愛さえ言葉に紡ぐ事の出来ない様な関係ではあるも、その瞳に私が映っているのだと思えば何度でも死ねる程、私は彼に盲目的なのだ。
そこには、もし死ぬのなら彼の手に掛かって死にたいと言う矛盾も存在するのだけれど。


いい加減自分の思考に恥じ、思わず手で顔を覆いたくなり腕を持ち上げようとしたら、肩に鈍い痛みを感じて小さく呻きを上げてしまった。
ひどい痛みという訳ではなかったものの、原因不明の痛みに困惑をすれば、そういえば任務先で馬鹿馬鹿しくも撃ち抜かれたのだったと思い出す。
ああ何だ、彼の人に与えられたものではないと言うのに死を決心し、哀しくも彼に別れを告げ血溜りに身を沈めたというのに私は助かったのか。
少なくともしばらくは睡眠時間を削る必要性があるなとぼんやりとした頭で次いで考えれば、傷には十分な休息が必要であると分かっていても、私の地位と責任が上がるたびに増えた仕事量、その中でも積み重なる書類は止む事を知らないし、もうすでに出ているだろう滞りを悪化させる事で彼を苛立たせる訳にはいかなかった。
任務もさすがに大仕事をこなすのはしばらく無理だろうが、その分は数をこなすなりして補わなければいけない。
気が付けば本の虫ならぬ仕事の虫と化している自分が存在し、こういう事を仕事中毒と言うのかと一人納得した、――まぁ、私がこれらをこなすのは全てただ一人の為だけになのだが。




そうこうしているうちに段々と視界も晴れてきた。
そういえば時間は何時なのだろうと、時計を探そうと首をめぐらそうとしたら、それははっきりとしてしまった視界に映ったものによって、今までの思考も含め全てが私の頭から吹き飛んだ。
私が見上げていたのは夜ではなく、少し癖のある黒髪。


「――雲雀さん」


思わず言の葉に乗せてその名前を呼んでしまってから、私は慌てて口を鉗む。
その髪と同じくらい、いやそれよりも深い漆黒を宿す瞳は今伏せられていて、微かな寝息も聞こえてくるのだから。
まさか彼が他人に寝顔を晒しているなんて、天変地異の前触れではないのか。
彼の気紛れに間近でその凄艶な顔立ちを見る事はあったが、それは彼の絶対性に隠れている訳で、こうも無防備な、少なくとも私の目にはそう見える姿を見ることがあるなんて。
そうだ、この甘い香りは彼が付ける香水の香りではないかと、顔が奇しくも紅潮するのを感じ、思わず目を逸らした。



「ようやく起きたのかい?」
「雲雀さん……」


しかし気が付けば固く閉じられていたその瞳が私を捕らえ、私はまた目を逸らせなくなる。
私が動いたから起こしてしまったのだろうかと思いつつも、その瞳の黒がやはり美しく、思わず見惚れていたら、突然不機嫌そうにすっと目が細められて問われた。


「君はどのくらい寝ていたと思う?」


溜まった書類をほっておいて惰眠を貪っていた事に、それによって彼の仕事の捗りに影響が出た事に怒っているのかと、恐る恐る丸一日くらいですか、と告げる。
すると丸一日……ね、と今度は不機嫌さに加え冷ややかな声で返事を返された。
瞳に宿る色は苛立ちを示していて、何か更なる失態を犯した事を私に理解させるには十分だった。
今すぐにトンファーが私に向けられたとしてもおかしくはなく、私一人咬み殺したくらいでは収まりそうにない様な苛立ちを生み出してしまった原因である私は一体何をしてしまったのだろうか。


「丸々一ヵ月」
「え、」
「君はあの日から一ヵ月も意識がなかったんだ」


最初の一週間なんてそのまま死んでもおかしくはないと馬鹿医者に言われてね。
勝手に死ぬくらいなら僕が咬み殺してやろうと何度思ったことか。
まぁ意識がない草食動物を咬み殺してもつまらないから、代わりに別の獲物を咬み殺したけどね。

私から目を逸らして彼はそう言った。

――嘘。
一日どころか浅ましくも一ヵ月も私は眠り続けていたのか。
この瞳は目の前の、おこがましくて音になど出来るはずもないが、私の全てである彼を一ヵ月も映さずにいたと言うのか。



「――すみません。すぐに仕事を、」


思考よりも先に口から紡がれた音は、彼の傍に立つようになってからもう何度言ったかも知れぬ謝罪。
目覚めた今も寝ている訳にはいかない、とようやく思考が追い付けば、次に私がする事は起き上がって書類の待つだろう自室に帰ることだった。
私自身の知らぬ間にとは言え一ヵ月も休息に当ててしまったと言うのに、完治にはまだ程遠い肩の傷を庇いながら起き上がろうとすれば、相変わらず不機嫌そうな声と同時に傷を負った方の腕を彼に掴まれる。


「――っ!」
「聞いてなかったの?」


何をですかという声は痛みに堪えた悲鳴に消えた。
意志に関係なく零れてしまった涙は、床に沈んでゆく。
耐える事が出来ずにふらつけば、今度は苛立ちとは違う優しさと言うものを含んだ声で私の名を呼びながら、怪我をしていない腕を引かれ、そのまま彼の腕の中に閉じ込められた。


「柚羽」


見据えられた瞳からは先程の苛立ちは消えていたが、かといって他の何かを映す訳でもなく、深遠の読めない漆黒がそこに存在しているだけだった。
彼がそれを意図してやっている訳ではないのだろうが、涙で歪んだ視界でも底知れぬ闇は美しさを失わず、瞬きどころか私の呼吸すら忘れさせる。

そして唐突に言われた意味を思い出していた。
君の代わりに咬み殺す、ああそうか、私を咬み殺す代わりではなく――。

柚羽、ともう一度名を呼ばれ、そして名を紡いだ彼の唇が私のそれに触れた。
まるで存在を確かめるようなキスは、彼には不釣り合いな程に優しく甘かった。


「愛してるよ」


その孤高の意を私が理解出来るはずがなく、ただ与えられたものに縋りついていかなければいけないという事が、私を更なる深遠へと迷い込ませていく。
だけどもそれが私の行く先なのだろう。
だから陽光が射す事のない、照らす月も輝く星もいらぬ夜空をこの手に抱いて生きてゆこう。
陽の光などいらない、私の行く末を灯す光は、その夜空を集めた貴方で十分だから。


「――私も愛してます」




天に浮かぶ光ではなく
(美しき)(私の燈)





(081121)
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