とへや、こたへや、
その晩は出入りも宴もなかった。組の者には銘々楽しむが良いと一晩の暇を与え、渋る牛鬼や鴉天狗達も外へと追いやった。酒を浴びるように飲み倒す者もいれば、一夜の夢を楽しむ者もいるのだろう。過ぎたるは身を滅ぼしかねないが、京入りしてからというもの抗争か身内との酒盛りしか興じていなかった者達にとっては度良い息抜きになる。
宿には、娘と男だけが残されていた。
通りの賑わいが微かに届いてくる以外、がらんどうの宿は静寂に包まれている。
二人が興じたのは相も変わらず酒盛りだった。娘が注ぎ、男が呑む。徳利の中の酒が安物から銘酒に変わろうともこの習慣ばかりは変わらない。初めは沈黙を楽しむように酒を堪能していた男だったが、やがておもむろに口を開いた。
「五月蝿いのがおらぬと静かだの」
「普段もお前様がおりませぬだけで、随分静かになりますが」
「ワシが一等五月蝿いとでも?」
自覚がおありならばそういうことなのでしょう、と娘は笑う。
たぷ、と揺れる徳利を持って娘が酌をすれば、男はぐいと杯を仰いだ。いくつ杯を空にしたかも定かではないが、変わらず質の良い酒が真水の如く喉元を通り過ぎていく。
そして心地良い酒や雰囲気がほんの少しばかり、男の口を軽くした。かの夜のカラス天狗同様、切欠になるとも知らずに。
「桜は良い。美しく、清らかで、儚げで。見る者の心をやわらげる――」
――桜、という音に空気が変わる。おそらく誰も気付かないような些細な変化だったが、琳は琳であるからこそ気付かずにはいられなかった。今まで桜と称せば示すものはただ一つだった。奴良組の花は、桜は、精霊は、ただ一つしかなかった。しかし。
たわんでいた糸が張りつめられたかのように、空気が締まる。問うべきは今であると、娘は感じた。
「――お前様。お前様には人間と交わる覚悟はおありですか?」
姫にも投げかけた問いを、目前の男へもまた問う。すると男の目が驚きに見開かれた。金色の瞳が欠けることなく自分を見つめている様子に、琳は苦笑を洩らした。桜を散らした袖が揺れて、花弁がひいらりと舞う。知らない、知られないとでも思っていたのだろうか。元より隠すつもりはなかっただろうに。牛鬼といい、奴良組の男衆は総じて愚鈍であるのか。
「珱姫に会ったのか?」
「――答えを、疾く」
問いに問いを返したところで話は何も進まない。琳が欲しいのは男の答えのみ。男の問いを無視して催促をすれば、やはり答えを口にすることを躊躇った。珍しく迷うていると思ったが、その理由を薄々感じ取った琳は答えを待つ。
やがてどうしようもないと察したのか、観念したように金の瞳を閉じると是と短く答えた。
(120312)
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