BASARAの虎とその娘的な。
捏造の境地なので閲覧の際はご注意を。





母上はわたくしが数えで三つの冬を迎えた折にお隠れになられた。秋がよくお似合いだった母上はいつも優しい笑みを浮かべられていた。わたくしの黒髪を指で梳きながら、いつもわたくしに姫君としての心得を説かれた。例え身を飾る珠玉が無かろうと、例え煌びやかな正絹を持たずとも、姫としての誇りを捨てぬ限り、わたくしは姫君で在り続けるのだと。姫君と呼ばれるものが如何なるものか分からないながらも、母上の微笑みの中に潜む真剣な眼差しに射抜かれたわたくしはいつもその言葉に首肯した。そうして首肯した後に母上の瞳がふと和らぐ瞬間がどうしようもなく好ましかった。


母上がお隠れになられてから六年の後、わたくしはその後に移り住んでいた館を離れ、小さな館に住まうことになった。小さなと申し上げるも、それは館を移してから付き従うこととなった家人が「嗚呼。姫様、嘆かわしや。武田の末姫ともあろうお方様がこのような寂れた小さな館に隠れ住まうことになろうとは」と嘆いていたからであり、母上がご存命の折に住まいとしていた館よりも余程大きく豪奢であったということは、わたくし自身が一番よく存じている。食は豊かとなり、衣も上質なものをあてがわれた。これ以上の贅沢というものがあろうかと嘆く家人に問えば「いいえ、姫様。貴方様の母君が御生誕されたばかりの貴方様を連れて武田を出奔なさらなければ、今頃や……」と首を横に振り言葉を詰まらせた。


そこでわたくしは一つのことに気が付く。――わたくしの父上という御方はどちらにおわすのだろう。この館は何れの御方にかあてがわれたものであり、食も、衣も、家人さえもわたくしがものではない。わたくしは珠玉も正絹も持たず、確たる地位も持たぬ幼子だった。姫君で在れと母上が言葉を遺さなければ、わたくしは存在意義を失い狂い死んでいたやも知れない。――そのわたくしに館一つを容易くあてがうことの出来る御方様こそが、父上で在られるのではないかと。


家人より紡がれる「武田」の二文字が父上に関係致すことは相分かった。武田とはこの地を治める甲斐の虎として名高い武将が姓である。もしや地下人には手の届かぬ遥か雲上におわす御方様に、わたくしは縁あるとでもいうのだろうかと胸に淡い期待を抱いた。姫で在りたまえと告げた母上の真の理由とはここに存在していたというのだろうのかと、心の臓が僅かに高鳴る様を止められずにいた。




しかし家人に細を問うもたれに口止めされるか聞くに能わず、わたくしは父上を知らぬまま五年の歳月を過ごすこととなる。尤も、心のどこかで繋がりを求めずにはいられなかったのか、身に纏うは武田の赤備えに似せた朱に近き衣。辰砂によって染め上げられた高級品と知りながらも、描絵も刺繍も何一ついらぬからとわたくしは唯一の我が儘を通した。たかだか衣のことであれば、と家人からすれば我が儘の一つにも入らぬかったらしいが、その朱を纏うことを許された幸運は忘れられぬまい。


そして朱や紅ばかりを纏うわたくしと庭に植えられた見事な椛の木とを合わせ、いつしか住まうこの名も無き館は、民草の間で秋の館と呼ばれることとなる――。









やがてわたくしは十五の秋を迎えた。相も変わらず朱の衣を纏うてはいたものの、母の顔もおぼろげになってしまった今、武田に、父上に望みを抱くことは殆ど無かった。この秋の館に住まわせて頂いている以上、父上、或いはその縁戚の御方はわたくしのことをご存知であるのだろう。しかし長きに渡りお姿の一つも拝見させて頂いたことがないとなれば、容易に窺えるものもある。


――つまりわたくしの存在は疎まれているより他に無いと。


そのまま捨て置けば長くも無かったであろうこの命を、何故お拾いになったのか。武田に縁ある者であれば、何時かの折には駒としてお使いになる気なのであろうか。何れの結末が待ち構えていようとも、わたくしをこの秋の館に住まわせて下さる厚意に疑心を抱いてしまうこの心がひどく悲しかった。珠玉を持たずとも正絹を持たずとも姫君で在れと仰った母上は、今のわたくしを見てお嘆きになられるのだろうか。惑う心は容易くわたくしから全てを奪い去ろうとしてしまう。


廊下に散っていた紅く染め上げられた椛の葉を手に取り、わたくしは両の手で優しく包み込んだ。この椛の紅は武田に心を分けられし証拠なのだろう。故にそっと静かに瞼を閉じて、私は音もなく椛の葉に祈る。どうか武田の御方様が御健勝でありますよう、父上が御息災でありますように、と。






「ひ、姫様……!」


祈りを捧げ、ぼんやりと紅に染まった小振りな椛の木を見上げていると、不意に家人の声が聞こえた。はしたなく廊下を掛けてくる姿にやんわりと注意をすれば、慌てふためきながら詫びる言の葉を紡ぎながらも何やら興奮冷めやらぬ様子で来客を告げた。――確固たる身分を持たぬわたくしは、世から隔絶された生活を送っていると言えども過言ではない。訪れる者など無きに等しいこの秋の館に一体何れの御方様が参られたのであろうか。疑問に首を傾げるも、家人に急かされながらわたくしはまれびと(客人)が通されたという間へと足を運んだ。


そして浮き足立った家人に促されお会いするは、真朱を身に纏うた御方であった。齢は五十路を越えていらっしゃるように見えるも、その覇気は一切衰えることを知らず、背には強大な虎の影さえ見える。お武家様であるのは間違い無く、お会いしたことのないその方に礼儀通りの礼をしながら、ふとわたくしは思う。
――真朱とは武田の軍色では無かったか。わたくしが如く似るも異なる紅を纏う者は星の数こそあれ、まことにその色を纏うことの出来る御方はほんの一握り。ならばこの御方様は――。


「た、けだ、しんげ、ん様……?」


頭を下げたまま震える喉から絞り出すように音を紡げば、信玄様は快活に笑われた後にそう畏まらなくとも良いと仰られた。それは紛れもない肯定の証である。頭を上げることも出来ぬまま、わたくしは畳の目にただひたすら視線を向けていた。向かってその先におられるのは甲斐の虎と呼ばれる猛々しい武田の武将、――わたくしの父上かもしれぬ御方。どうしてそのような御方に、面を上げることが出来ようか。
しかし曲がりなりにも秋の館の主がわたくしであれば、まれびとをもてなすのがわたくしの役目。母上のお言葉を胸に抱いて、乱れる心を矜持の下へ追いやり、口を開こうと浅く息を吸った。


「……武田には美しい秋が在ると聞いてのう」


けれども新たに言葉を紡いだのはわたくしではなく信玄様であられた。仰せになられた面を上げよとの言の葉に従い、ゆるやかに下げていた頭を持ち上げれば、信玄様は視線を庭へと向けておられた。開け放たれた障子の先に見られるのは紅に紅を重ねた椛の木。わたくしが先程まで目にしていた椛よりも背の高いそれはこの館で最も美しく、その椛を最も美しく見ることの出来る場所がこの部屋であった。


「今時分は真に見事な盛りであります。名高き武田の御方様に御覧頂けたとありますれば、椛もまた誉でございましょう」


ふむと頷き、信玄様はなおも庭へと視線を向ける。――秋、と信玄様は仰った。恐れ多くも雲上の方々の耳へも届いていたのかと思えば、衣に隠れた指先に僅かに力が入る。この館が秋の館と呼ばれる所以は、紅に染まる椛、朱を纏う姫が在ると近隣の者の間で噂になったからだという。ならば信玄様のお耳に入る際、椛と共に朱を纏うている娘御の噂もまたお聞きになられたやも知れぬ。
もしや身分違いも甚だしいとお怒りになられたのだろうか。今も纏うは銀朱の衣であり、真朱で無くとも近き色であることに違いはない。ならば信玄様の御不興を買って、お手打ちにされたとしても、わたくしに反論する術はない。そもそも朱を纏う理由こそが武田の真朱にあるのであれば、真に正しいではあるまいか。


――父上と思しき御方様にお手打ちにされるのであれば、それはまた一興であるかもしれない、そうも思った。無常に過ぎて行く時の中で拾われたわたくしの命であるならば、それを摘むのもまた拾われた方なのではないだろうか。


さて、わたくしのこの命、行方は何処へか。わたくしはそれきり口を閉ざし、その横顔を拝見していた。暫し時を止めたように沈黙が部屋を包み込む。緊張して然るべき沈黙はしかしどこか心地良かった。







「真にこの館の秋は美しいものよ、――この銀朱を纏いし秋に父とは呼んでもらえぬものか」





――――瞬間、喉が震えた。
信玄様はなんと仰ったか。わたくしが聞き間違えたのではあるまいか。改めて信玄様のお顔を拝見すれば、その二つのまなこは確かにわたくしの姿を捉えておられた。お手打ちになるやも知れぬとの心境から一転、信玄様はわたくしを喜びの境地へと追いやられた。


「…………ち、父上とお呼び申し上げて宜しいのですか」

はらはらと紅く色付いた椛が散りゆく。同時にわたくしの頬を伝い、透明な雫が散った。銀朱の衣にぽたりぽたりと落ちては小さな染みが生まれる。ああ、わたくしが客人に粗相をしてしまうなんて、先程家人に諫言したばかりであるというのに向ける顔が無くなってしまうではないか。
それでもこの歓喜を止める術をわたくしは持ち合わせていなかった。



「そちは確かにこの武田信玄が末の姫ぞ」








(わたくしは今、初めてこの世に生を受けた)





(101112)
(120407再掲)
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