泥と血にまみれた手を強く握り締めた。


既に乾き始めていたのか指は曲がりにくく、それを無視して曲げる度にぱりぱりと乾いた欠片が関節から剥がれ落ちる。もたげた頭も同様に汚れているのか頬が引きつるのを感じたけれども、汚れを拭う気はおろか何の感慨も湧かなかった。顔の筋肉を動かす気には到底なれず、虚ろであろう瞳だけをごく狭い範囲だけに巡らせれば、左手の甲に何処で付けたのか分からない擦過傷が出来ていたことに気付いた。血はとうの昔に止まっていたものの、泥の細かい粒が傷に入ってしまったのだろう。気付いた傷がひりひりと鈍い熱を発しながら痛む。思えば肩や肘、背中、脹ら脛、身体中の至る所が悲鳴を上げていた。右の脇腹はそういえば肉を抉られていたか。失われた血が多量過ぎて、もはや今もなお血が流れているかどうかなんて分からない。たかが手の擦り傷に気付ける程、肉体の損傷は生易しいものではなかった。否、肉体よりも何よりも、胸に空いた大きな穴がひどく苦しめた。


肺から空気が抜け、喉がひゅうと音を鳴らす。



――多くの人間が、また死んだ。
――そして私は、また生き残った。



限界まで握り締められた拳に更に力を込めた。


爪が肉に食い込む、ふつりと皮膚の切れる感触がした。徐々に浸食する生暖かいものは血なのだろう。あれだけの血を流しておきながらもまだ体内を循環する血がどうにも恨めしい気がした。多くの人間が聖戦と呼ばれる戦争に傷付いては死んでいく。一体何百人、何千人、何万人が死んだのだろう。これから奪われる命は百か千か万か、どれ程の命が潰えればこの戦争は終わるのだろうか。私が例えば戦争中に死んだとして、私の戦いもまたその瞬間に終わるのだろうか? けれども答えはおそらく否なのだろう、私は死んでなお命を賭して戦うのだ――それが神の意志でおわすのならば。





どれ程の時間をそうしていたのだろう。
不意に、垂れたこうべに影が差した。


俯いたまま上がらない視線では影の持ち主が誰であるかを確認することは出来ず、けれどもするつもりもなかった。この身はやがて再び戦いの中に投じることとなるのだろう。ならば今ばかりは私を一人放って置いて欲しかった。もしも今此処で何かを問われたのならば、私はもう二度と立ち上がれないような気がした。辛うじて形を保っている心が今度こそばらばらに砕けて復元されることなく霧散してしまうのではないか、そんな気がした。


私の願いが通じたのか、影が何かを語ることはなかった。近くも遠くもない距離に影はただ静かに佇んでいる。程良い距離感に安堵したのか知らず知らずの内に深く息を吐くと、この場には似つかわしくない香りが不意に鼻腔を擽った。


――この香りを私は知っている。


指先が小さく跳ねた。目に見えるか見えないかというくらい微かに手が震えている。忘れようにも忘れることなど出来もしないそれ。本来ならばここに在るべきではない香りがどうして。


わずかに口を開けば、頬に貼り付いた泥が音もなく膝の上に落ちた。泥と同様に乾いていた唇が切れて口の中に血の味が滲んだものの、痛覚らしい痛覚は戦いで潰えたか、痛みを覚えることはなかった。粘性の強いつばきを一度嚥下すれば、こくりとやけに大きな音が鳴る。胸の鼓動が徐々に高まるような気がした。


「……神の意志とは何ですか?」
「千年伯爵とノアをぶっ潰すことだろうよ」


声がした、言葉が返ってきた。それは鼓膜を通して脳裏に焼き付くような音だった。エクソシストとして生きると決まったその日から何度も繰り返されてきたその言葉は、何時だって変わらない。けれども、その言葉通り私は私達は人間を守る為に戦っているはずだった。今もそうであることに違いなく、そうであると信じてきた。世界の終焉から人々を救うため、AKUMAという悲劇を無くす為に戦ってきた。


――では、どうして私達にとっての人間とは信頼するに足る存在でないのだろうか。人混みを歩くことがひどく怖かった。私の前を歩く人間が、私とすれ違う人間が、私の背に立つ人間が、どうしてAKUMAでないと言い切れるのだろう。私はアレンのような眼≠持っていないのだ、私達にとって人間は疑うべきものに過ぎなかった。


「私には神の声は聴こえません、私は何を信じたら良いんですか? 私は、何を守るために戦えば、良いんですか?」
「じゃあ聞くが、お前は何を守りたい」


私は何を守りたいか。そんなことは簡単だった、千年伯爵を倒し世界の終焉を阻止することが私達エクソシストの使命なのだから、彼らを倒し人々を守ることもまた使命だろう。終焉を防いだところで人類が一人もいなければ、それは私達の負けに等しい。戦うべきはAKUMAでありノアであり千年伯爵であり、守るべきはそれらの脅威に晒される罪なき一般人であろう。私はそう既存のテンプレートのような答えを紡いだ。けれどもそれはいとも簡単に一蹴されてしまう。


「馬鹿言え、それはただの建て前だ。お前が本当に守りたいものは何か、もう一度よく考えて言ってみろ」




――本当に守りたいもの。


それを知っていれば、私はこれほどまでに苦まずに済んでいたのだろうか。私はアレンや神田のように芯が振れることなく貫き通すことが出来たのだろうか。――否、それを知らないからこそ、今こうして私が苦しんでいるのではないか。
ならば私はどうしたら良いのだろう。私が守りたいものなど分からない、けれども分からないという言葉が許容される訳がない。望まれているのは是非でも曖昧模糊な回答でもない、私の明確な意志なのだ。エクソシストとという衣に包まれた惰性ではない何かが、果たして私の中に存在しているのだろうか。


今にも思考を止めてしまいそうな頭を必死に動かしていると、不意にアレンの顔が浮かんだ。私とは違う、意志を貫き通す心優しい少年。彼を取り巻く環境は悪化の一途を辿るばかりだというのに、それでも誰よりもクラーヂマンに相応しいエクソシスト。
そういえば、とアレンがコムイさんとしていたという話を思い出した。アジア支部でアレンが神ノ道化を手にした後、方舟の中で通信が途絶えるまで語っていたという話。みんなが帰ってきたらという内容だったらしい。その話をアレンから聞いた時、それは私の願望にひどく近いものだと思った。


だから、彼らの想像通り作り出される空間を守りたい≠ニ思ったのだ。


ああ、そうか。





「……アレンを、守りたい。リナリーを、神田を、ラビを、私と共に戦うエクソシスト達を、コムイさんを、リーバー班長を、ジョニーを、私を迎えてくれる優しい人達を、私は守りたいんです」


顔も知らなければ名も知らぬ人間なんて知らない、私達の居場所を守ってくれる彼らだけがいてくれれば良いのだ。彼らが私に与えてくれる分だけ、私は彼らに返してあげたい。気付いていなかったけれども、たったそれだけの理由で私は再び立ち上がることが出来ていた。エクソシストはイノセンスの適合者として世界の滅亡から人類を救わなくてはならない、けれども私にはそれだけで十分なのだ。
質問の答えはこんなにも簡単なものだった。


握り締める手の力が緩んだ。手の震えが止まった。そのままゆっくりと拳を開いてみれば乾き切った泥がひび割れて零れ落ちる。掌には紅い三日月が四つ、歯を剥いて笑っていた。




「まあ今のお前には十分過ぎる答えか……。次は好いた男を守りたいとでも言えるようにするんだな、馬鹿弟子」


緩んだ空気に笑みを見たような気がした。かつんかつんと靴底が地面を叩く音がして、影が徐々に遠ざかっていく。紫煙の香りが白い風に攫われて瞬く間に消えていく。姿を見ることは叶わない、引き止めることも叶わない。私には視界の片隅に映る影をただ見送ることしか出来なかった。


完全に足音が聞こえなくなったことを確認してから、泥の付いた睫が縁取る瞼をそっと閉じて頭上に広がる空を仰ぐ。閉じられた瞳では空の色は当然見えないけれども、瞼の裏に雲一つない蒼空が映っていればそれで十分だった。


私は蒼空と消えた影に向かって呟いた。
この言葉を聞く人は誰もいない。


「でも、本当は一番、あなたを守りたかったんですよ、師匠」











(110214/title by空想アリア)
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