(十年後)




彼女の細い手首を強引に引きながら、僕は財団にある自室を目指して足早に廊下を歩んでいた。彼女のヒールが叩くカツカツという耳障りな音を聞き流しながら、ただひたすら足を進める。途中で擦れ違った部下達は僕の様子を見ては腰が引けているようだったけれども、咬み殺す時間さえ惜しくて気付かないふりをした。


部屋の扉を開け放つと同時に彼女をそこへ押し込め、他者の侵入を拒むように施錠する。元々この部屋へ許可なく入れる者はほんの一握りしかいなかったが、万一の事態すらも今は必要なかった。この瞬間、この部屋へ侵入する者が現れれば、それがボンゴレであったとしても跳ね馬であったとしても、誰構わず咬み殺してしまう確信があった。それは彼女に全てぶつけなければならない感情であり、他者に押し付けるとはもってのほかである。壁際に追い込んだ彼女を上から見下ろしながら、僕は吐き捨てるように問い掛けた。


「なんで逃がしたの」
「あの子はまだ幼い子供です!」


隠しきれない、隠すつもりもない苛立ちに、一瞬彼女は肩を震わせる。けれども、それでも彼女は気丈にも僕を前に言い切った。射るように睨む僕の視線から反らすことなく真っ向から視線を投げ返す彼女の瞳は、何者をも撥ね付けるような強い光を二つの黒曜に宿している。それは彼女が自分の意志を貫き通そうとする時の瞳であり、僕が彼女を気に入った理由でもあった。僕を真っ向から相手取ることの出来る草食動物は、あまり多いとは言えない。跳ね馬はとにかくも、あのボンゴレ十代目ですらそれなりの時間を必要としたのだ。そんな中、彼女は十年間変わることのない深い色をした瞳を僕に向けてきた。普段ならば、彼女のその媚びない視線を好ましく思うかもしれない。
けれども、僕は彼女の言葉を迷うことなく切り捨てた。


「それだけの理由で君はあの子供を逃がしたの? それは偽善者がする行為だ」


あの幼い子供が生かされたことに感謝し、今後はマフィアに関わることなく真っ当な生を送るとでも思っているのだろうか。本当にそう思っているのならば、ただ甘ったれた思考を他者に押しつけているだけだ。まるで自分一人が食事を一食抜けば、世界中の飢えた人間の腹が満たされると考えているようなもの。それは文字通り偽りの善意だ。


――ボンゴレ側から見れば、同盟を結んでおきながらボンゴレが禁止する麻薬や拳銃の密輸をしていたファミリーは十二分に粛正の対象となりうるだろう。ボンゴレが正しいと見なした上でボンゴレの意に反することは、過剰に言ってしまえば悪だ。けれど、彼らからすれば悪であるのは自分達を滅ぼさんとするボンゴレであり、ファミリーの粛正という任務を任された僕らなのだ。


そしてそのファミリーのボスであった少年の父を討ち取ったのは、ボンゴレ雲の守護者である僕とその部下である彼女。再三の要求にも応えなかったファミリーを、密輸品や所有する屋敷と共に壊滅させた。何処からか発生した炎によって燃え広がる屋敷の一番奥の部屋にいた男は、ボンゴレからの最後の通告さえも飲むことはなく、一発の鉛玉によって命を落とした。その身は炎と共に潰えたことだろう。――鈍く光る黒い鉄の引き金を引いたのは彼女だった。


「それくらい分かっています。ですがこの世界で偽善を捨てて何が残るというんですか……!」


そしてその光景を息子である少年は最後の一瞬までもを、脳裏に焼き付けていた。瞳が、耳が、鼻が、皮膚が、余すことなく紛れもない現実を突きつけた。触れた父の温もりが消えていく様を、止まることのない紅き血がその手を濡らす様を、あの少年は一生忘れないことだろう。
父親が帰らぬ人となったことを知った少年の対の眼(まなこ)が僕らを捉えた瞬間のことを、僕もまた忘れられないだろう。僕らに向けられた瞳は、憎悪の炎に揺らめくマフィアのそれだった。


「偽善を語ることが出来るのは、全てを手に入れた者だけだ」


――あの今は誉れ高きボンゴレですら、その手を幾度となく血に染めた。祈るように拳を振るうと九代目に称された程、戦いを厭う彼は、それでもその信念を貫き通す為には犠牲を時間を必要とした。これからもその手を罪に濡らしながら、彼は美しい信念を貫くのだろう。マフィアという裏社会の頂点に立つボンゴレですら、犠牲なくして信念を貫くことは出来なかった。


僕にとってボンゴレや彼女の言わんとすることは単なる知識でしかなく、理解に値するものではない。それでもボンゴレが犠牲無くして語れるものを、一介のマフィアである彼女が語ろうとするのは愚かにも程があろうことぐらい知っている。


「もしも、あの少年が復讐と称して誰かを殺したとする。君はどうやって責任を取るつもりかい?」


少年を殺して自分も死ぬ、とでも言うのならば、それは偽善を通り越して逃げでしかない。為すべきことを省みることなく捨て置き、責任放棄に走ることと同じだ。人間一人の命の重さを自分一人の命で賄えると思っているのならば、それは驕りにも程がある。他人の命を矮小なものと見下しているのか、或いは自分の命を過大評価しているのか。草食動物達が曰う、命は計り知れないものという言葉を信じるのならば、どうして死を死で贖うことが出来るというのか。




「――有り得ません」
「へぇ、どうして言い切れるんだい?」


暫しの逡巡の後に、彼女はそう言い切った。硝煙の香りが染み付いた鉄を握り締め、数多の罪に濡れる真白な手が小さな拳を作る。余程強く握り締めているのかその拳は血の気が引いて更に白さを増していた。


「私があの子を逃がしたのは信じたからです。……確かに私が行ったことは偽善でしょう。でもそれ以前に、信じるに値すると判断したからこそ、私はあの少年を逃がしたんです」


僕が見た少年の瞳は憎悪に揺らめくマフィアの瞳だった。しかしながら彼女が見たのは信頼するに足る瞳だったという。僕らの相違がどこにあるのかと言えば、あの少年に対する根本的な意志の差だろう。彼女もおそらくはあの激しい怒りを秘めた瞳を見ている。それでもその怒りの中に光明を見た、或いは少年は修羅に堕ちることがないとの確信を得たのだろう。


そう語る彼女の瞳は面白いくらいに揺るがなかった。僕が気に入った彼女の瞳がそこにある。群れては弱さを露呈する草食動物でありながら、草食動物とは思えない瞳を持って僕に食い下がってくるのは彼女だけだ。十年前から変わらない彼女のオニキスの瞳が僕を射抜いてくる。



――その瞳を見て、気が変わった。



正直に言えば彼女の論は穴だらけであり、その穴から瓦解させること自体は容易い。そもそも任務に背いたことを理由に彼女を咬み殺し、あの少年を他の部下に捜索させることだって可能なのだ。彼女以外の草食動物がこんなことをしようものならば、僕は問答無用で咬み殺していたことだろう。しかしながらそれをしないのは、この瞳があるからだ。
彼女の瞳が決定力に欠ける論を底上げし、論に裏打ちまでする。揺らがない筋の通った瞳が見たものを信用してみたくなるのだ。実際、この十年で彼女が梃子としても動かなかった判断に外れは一つもない。一種の超直感のようなものだといつかの赤ん坊が言っていたか。


それに、生憎このことを知っているのはまだ僕ら二人だけなのだ。証拠となる屋敷は燃えてしまったし、彼女か僕が口を開くかあの少年が事を起こさない限りは外部にこのことが漏れることはないだろう。ボンゴレ側は何か気付くかも知れないが、彼女と同じ思考をしている沢田綱吉ならばとやかく言うことも無い。


「気が変わったよ、君のその目に免じてボンゴレに黙っていることくらいはしてあげるよ」


その言葉に緊張が解けたのか、身体が脱力すると同時に瞳の灯りが消えた。
こうして見ればそこらの草食動物と大して変わりはないと言うのに、彼女は僕を飽きさせることを知らないのだから不思議なものだ。施錠していた扉を開け、彼女を部屋に残したまま僕は部屋から出た。執務室へ戻ろうかと足を向けたものの、緊張から解放されたばかりの彼女は今暫く仕事には使えないだろう。ならばその間に久しぶりに赤ん坊の所へでも行くか、と踵を返した。






(さて、君はいつまで僕を楽しませてくれる?)




(110202)
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