あふれて

約束をした休日。詳しい話は聞けなくてあまり予習が出来なかったこの日、田村先輩とともに香純先輩に連れて来られたのは、電車に乗って幾つか先の駅。そこから程近いところにある、美容室だった。
田村先輩の瞳が揺れる。透明の硝子越しの光景にその姿はないけれど、まさか。僕が香純先輩の顔を見るのと、「まさか、此処は」茫然自失とした状態の田村先輩が呟くのはほぼ同時だった。
まだ確認はしていないけれど、と香純先輩は前置きする。いつもより硬い笑顔は、先輩も同じ気持ちということだろう。期待と不安とが入り交じった、そして希望が僅かに瞬く、名状しがたいこの感情だ。それを今一番感じているのは、僕でも香純先輩でもなく、田村先輩だろうけれど。

「カリスマ美容師と、呼ばれているらしいの」

田村先輩が、息を呑む。





からんからん、と軽いベルの音が響いた。香純先輩が促して、田村先輩が一番に足を踏み入れる。続いて僕が、そしてドアを支えていた香純先輩が。入ってすぐのカウンターには誰も居なくて、どうしたものかと考える間もなく奥の方から声がした。

「いらっしゃいませー」

懐かしい、声が。
すぐ後に現れたその柔らかな表情も、その髪色すらも、懐かしまずにはいられないものだ。そしてすぐに悟るのは、田村先輩を見ても顔色ひとつ変えないこのひと、斉藤タカ丸さんは、前世を憶えていないということ。

「お待たせしちゃってすみません。ご予約のお客様ですか?」
「……はい。予約していた、七音です。この子たちは付き添いで」

香純先輩が答えるとタカ丸さんは「お待ちしていました」にっこりと笑って名簿らしいものを取り出す。香純先輩が前もって予約の電話を入れていたのだろう。僕や田村先輩の分がないのは金銭面の問題かもしれないし、ひとりでも予約していれば充分だと思ったのかもしれない。田村先輩にも伝えていなかったのは、外れだった場合を考えて必要以上に期待させたくなかったんだろう。後輩の悲しむ顔は見たくないとか、そういう理由で。その悲しみも一緒に背負わせてくれたらいいのに、とは思うけれど、こうして一緒に確認に来ただけでも香純先輩としては譲歩したつもりなのかもしれないのだから、この文句は胸のうちに秘めておこう。
田村先輩はずっと黙ったままだ。じっとタカ丸さんから視線を逸らさない。苦しそうな感情を隠すようにしているけれど、ただその目は喜びの色も宿していた。そりゃあ嬉しいだろうなぁと僕は思う。相手が憶えてないのは少し寂しいけれど、それでもまた、逢えたのだから。
タカ丸さんはにこにことしたまま僕らに椅子を勧め、香純先輩を鏡の方へ案内する。すると次に奥から出てきたのはタカ丸さんのお父さんだった。そのまま香純先輩と幸隆さんは談笑を始める。今世でもカリスマと呼ばれているらしい幸隆さんは前世と同じく素晴らしい腕前なんだろう。香純先輩の髪型がどうなるかは、楽しみにしておこうと思う。
タカ丸さんは僕らの方へ戻ってくると、何冊もの雑誌を机に置いた。髪型のカタログかと思えばファッション誌や漫画雑誌なんかも混ぜられている。「お待ちになっている間、よければどうぞ」という言葉の通り、時間を潰すためのものらしい。

「あ……あの」

此処までずっと黙ったままだった田村先輩が、ようやく口を開いた。
微かに掠れた声は震えを含んでいて、ひとつ深呼吸することでそれを完全に押さえ込む。そして見せた笑顔は、アイドルの名に相応しいものだった。

「貴方も、美容師なんですか?」
「いえ、僕はまだ、中学生なんです。ここは父の店で、たまに手伝いを。僕も美容師を目指しているんですけどね」
「そう、なんですか。……あの、斉藤さん、でいいんですよね」
「はい。斉藤タカ丸です」
「タカ丸さんとお呼びしても?」
「勿論」
「じゃあ、タカ丸さん……」

ようやく名を聞けて、それを声に出来る喜び。どれだけ予習したって湧き上がるそれを、田村先輩も感じているんだろう。ほんの少し目が潤んで見えるのは、気のせいということにしておくべきか。

「よかったら、僕の髪を切ってもらえませんか」
「え?で、でも」
「タカ丸さんに、お願いしたいです。勿論お金も払いますから」
「……ううーん」

困ったように笑うタカ丸さんは、それでも目が輝いていることが分かる。今世の田村先輩の髪は昔よりもずっと綺麗だから、触りたくてうずうずしているんだろう。幸隆さんと何かを話に行って、戻ってきたときに「カットモデルってことでもいいかな」そう告げたタカ丸さんは満面の笑み。勿論と頷いた田村先輩もまた、いつも以上に輝いて見えた。





ならば早速と連れていかれた田村先輩と入れ替わるように戻ってきた香純先輩は嬉しそうに微笑む。少しばかり短くかつ艶やかになった髪によるものか、それとも彼らのことか。そのどちらもなんだろうなと僕は予想する。きっと、後者寄りの。

「お待たせ、藤内」
「いえ。その髪型もお似合いですね」
「ふふ、ありがとう。三木も切ってもらうならもう少し時間が掛かるけど、大丈夫?」
「勿論です」

よかった、と胸に手を当てた香純先輩は僕の隣に座り、鏡の前に座る田村先輩を見つめる。相変わらず優しい笑顔はそのままで、けれどほんの少し、寂しそうにも見えた。
何故?そう問うよりも前に、「ねぇ藤内」香純先輩が僕の名を呼ぶ。視線はまだ、あのふたりに向けたまま。

「数馬に逢えたとき、孫兵に逢えたとき、嬉しかった?」
「え、ええ。勿論です」
「彼らに記憶がないと分かったとき、寂しかった?」
「……はい」
「それでも仲良くなれたときは?」
「言葉に出来ないほどに、嬉しかったです」

正直に、僕は答える。香純先輩にとっては残酷な答えだったかもしれない。けれど香純先輩は気休めの言葉なんて必要としていない。そっか、と呟いた香純先輩の表情は変わらずで、僕は思わず先輩の手に手を伸ばしていた。そっと触れればぴくりと跳ね、小さな笑う音とともに逆に手を握られる。暖かな掌が、小さく震えていた。
あのね藤内、と香純先輩は言う。目線は相変わらず田村先輩たちの方向、けれど、きっと先輩が見つめているのは別のもの。恐らくは近い未来を、見つめていた。

「私ね。……私もね、少し頑張ろうと思うの」

震える声で紡いだその決意は、必ずよい結果を結ぶと、僕は信じている。


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