えがお

七音は甘える方法を知らないのかもしれない。
少なくとも弱音を吐くのが苦手なのだろう、悲しいことがあったときいつも泣きそうな顔で笑おうとする。震える肩に泣けばいいと言ってやるには自分の言葉に力はなく、隠してやるには自分の手は幾分小さかった。

「中在家先輩」

図書の返却を終えた七音がカウンターの中に足を踏み入れるのを見て、また何かあったのだろうと言及はせずしたいようにさせてやる。するとやはりいつものように足元に座り、私の手を彼女の頭へと導いた。彼女の望むように滑らかな髪を撫でる。
暫く黙ったままだった七音は、しかし今日は肩を震わせることもなく、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。

「……この間、食満先輩と出掛けていたときに、伊作先輩……伊作さんに会ったんです」

懐かしい旧友の名前に思わず手が止まる。すぐに再開したが七音は気付いただろう。だがそれを指摘することもない。いつだって七音は、私が気付くなと願うことを察して見ぬ振りをする。
未だ会ったことがない今世の『善法寺伊作』は、七音が偶然見つけたひとりだ。彼奴の相変わらずの不運をきっかけに、少しずつ仲を深めていると聞いていた。かつて先輩と慕った彼とまた親しくなれることは嬉しいと笑っていたが、私に気を遣っていたのかその名を口に出すことは少なかった。
だから今回はよほどつらいことがあったか、もしくは嬉しいことがあったのだろう。留三郎の名も出たのだからどちらであってもおかしくはない。覚悟を、決める。

「少し騒動があって、そのあと三人で立ち話をしてたんです。そうしていたら、食満先輩がまだ親しくない伊作さんを不運から助けてくれて」

留三郎もまた前世の記憶はないが、同じ学校の生徒であるから接点を作るのは難しくなかった。あの頃のようにとはいかなくとも、名前で呼びあう程度には親しくなった。だから今世でも留三郎の人のよさは知っている。その優しさや面倒見のよさは、きっと何度世を巡ってもその心に刻まれているのだろう。その留三郎の性格を喜んだのだろうか。伊作に手を差し出す留三郎の姿を、七音はよく見ていた筈だから。
しかし七音が続けた言葉は、私を再度揺さぶった。

「そうしたら伊作さんが、『留三郎』って、呼んだんです」

そう呼ぶ筈のない、善法寺伊作が。
それははたしてどういう意味を持つのだろうか。記憶があるわけがなく、思い出したわけでもない。ただ当然のようにするりと吐き出したのだというのなら、それもまた『心に刻まれて』いたということか。彼等のやりとりが。彼等の、絆が。
それは一筋の希望のようだった。
それと同時に絶望のようにも見えた。

「そういえば三郎たちも、あの頃のように仲良くしていますし。それが縁というものでしょうか」
「七音、」
「このまま兵助や勘右衛門とも知り合って、あの頃みたいに仲良くなってくれたら、嬉しいなぁ……」

夢見るように語るその言葉に、七音自身は含まれない。雷蔵たちと同じクラスになったと報告してきたときの笑顔はもう随分と見ていない。彼女は他の誰かとは新たな関係を築こうとするのに、彼奴等とだけは距離を縮めようとしなくなった。
縁があるというならば何故七音は彼奴に拒否される。七音との縁が一番強かったのは、彼奴だろうに。
彼女が雷蔵や鉢屋の名前を口にするのが減ったのはいつからだったか。七音が私たちの繋がりばかりを望むようになったのは、いつからだったか。
七音は田村や浦風の支えになっている。私は既に卒業してしまった先輩に幾度も助けてもらった。七音の助けとなるのは私の役目の筈だというのに、しかし私は何も出来ていやしない。

「……中在家先輩」
「ん……?」
「いつか伊作さんをご紹介できるように、頑張りますね」

私が彼女のためにしてやれることは、何があるのだろうか。


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