であう

七音さんと出会ったのは偶然だった。
ある休日、本屋に行った帰りの電車で紙袋が破けて、本を拾うのを手伝ってくれたのが七音さん。それから何となく意気投合して連絡先を交換して、たまに会ったりなんかして。でも好きだとか、抱き合ったりしたいとか、そういうのじゃない。一緒にいれば落ち着くような、懐かしい気分になるような、よく分からないけど、これは親愛ではあっても恋愛感情ではないと、断言できた。

「だから殴らないでくださいぃぃいっ!」
「本当だな?本っ当に香純に手を出したわけじゃねぇんだな?」
「本当です!信じて!」

僕は今、七音さんの彼氏に詰め寄られていた。怖い。目付き鋭すぎて怖い。彼氏いるとは知ってたけど、もっとふわふわした人か飄々とした感じの人だと思ってた。
助けてという願いが通じたのか、「留三郎先輩」七音さんが彼氏の名前を呼ぶ。彼氏の視線が僕から離れてほっとしたけれど、同時にハッとした。もしかしたら七音さんが怒られるんじゃないか。だとしたら僕はなんてことを!

「善法寺さんをあまり虐めないであげてください」
「こいつの肩を持つ気か……?!」
「いいえ」

駄目だ殴られる!自分の顔から血の気が引いていくのを感じながら七音さんを見れば、けれど彼女は眉を下げ悲しそうに微笑んでいた。

「ただ、放っておかれると……ちょっと寂しいな、って」
「そっ……そうか、悪い」
「いえ、私が悪いんです。ちゃんと紹介すればよかったですね。以前お話しした、友人の善法寺さんです」

……殴られてない。ひと安心して胸を撫で下ろす。七音さんの彼氏は、ちょっと怖いけど七音さんを大切に想ってるらしい。というか、ベタ惚れだ。明らかに演技な七音さんの台詞にあっさりと僕を離してくれた。彼氏さんの目にもう僕は映ってないのだろう。
何はともあれ、誤解は解けたようでよかった。偶然会った七音さんとちょっと挨拶したところで胸ぐらを掴まれたんだけど。紹介される暇なんてなかったけど。そんなことは気にしないでおこう。
七音さんに紹介されて、僕はちょっと深くお辞儀をする。

「ええと、善法寺伊作です」
「食満留三郎だ。悪かったな、いきなり」
「い、いえ」

ぶんぶんと首を振れば、目を回すぞと彼氏さんが笑う。笑うとちょっと目付きも和らいで、ううん、なんだかいい人そうに見えてきた。

「留三郎先輩、善法寺さんは先輩と同い年なんですよ。近くの私立に通ってるそうなんです」
「そうなのか。頭いいんだな」
「い、いや、そんなことないです……」
「ああ、敬語なんていいぞ、同い年なんだし」
「そ、そう?」

七音さんのおかげで彼氏さんがどんどんフレンドリーになってくる。いや、怖かったのも七音さんのことで誤解されたからだけど。もともとは人がいいタイプなのかもしれない。
やっと僕の緊張も解れてきたのか、顔の筋肉が引きつらない笑顔を作ってくれる。そうすると話も苦じゃなくなって、自己紹介を交わしたり七音さんとの出会いの話をかいつまんで話したり。たまに七音さんが話題の変わるきっかけを入れたりなんかして、立ち話に花を咲かせていた、ら。

「――危ねぇっ!」

強い風が吹いたのと同時くらいに、ぐんと腕を引かれて体勢を崩す。どうにか転けずに踏みとどまると、背後でばたんっと何かが倒れる音がした。
振り返って見れば立て看板が倒れていて(固定する紐が切れたらしい)、腕を引かれてなければ僕を強打していただろう。つまり、助けてくれたのだ、彼氏さんが。

「ったく、これが不運か?」
「ご、ごめん、ありがとう食満くん」

呆れた様子の彼氏さんに、僕はそれを否定できずに礼を言う。僕は昔から不運で、生傷も絶えなかったから。彼がいなければ今回も下敷きになっていたに違いない。感謝してもしたりなかった。

「留三郎先輩、凄いです。咄嗟に動けるなんて、格好いい」
「そ、そうか?いや、体が勝手に動いてな」
「何だか慣れてるみたいでした。ねえ、善法寺さん」
「うん。本当助かったよ」

本当に、昔から助けてもらっていたような気になってくる。初対面なんだから当然そんなわけもないけど、七音さんにも言われると彼も悪い気はしないみたいだ。

「まあ、また何かあったら助けてやるよ」
「ありがとう、留三郎」
「え」
「あっ、ごめん、つい」

そりゃあベタ惚れの彼女に言われたら調子よくもなるよなぁ。そんなことを考えていたからだろうか、うっかり馴れ馴れしく呼び捨てにしてしまっていた。しかも名前を!
なんでそんなことを、いやでも思わずつい!七音さんもぽかんとしていて、僕はまた怒られるかもと肝を冷やす、けど、彼は「いや、いいぜ」気にするなと首を振った。怒ってはいない、らしい。

「そう呼んでくれて構わねぇよ。食満くんより全然ましだ。俺も伊作って呼ばせてもらうかな」
「え、じゃあ私も、伊作さんって呼ばせてもらっていいですか?」
「えっ、う、うん、勿論!」

ふたりにそう名前で呼ばれるのはすごく耳に馴染む。「香純でいいですよ」という彼女のお言葉に甘えて(留三郎に睨まれないのも確認して)香純ちゃんと呼んでみれば、すとんと自分の中で落ち着いた。留三郎といい香純ちゃんといい、本当に昔から仲のいい友達だったみたいにしっくりとくる。
なんだか不思議だ。そんな想いを抱いているのは僕だけだろうか。「さんっていいよな」「もしや呼ばれたいんですか」いちゃつくふたりの表情を読むことなんてできないけど、香純ちゃんと呼んだときの笑顔が嬉しそうだったから、もしかすると同じ想いを抱いているのかもしれない。説明しづらい想いだから、訊くこともできないけど。

「っと、そろそろ行かねぇと」
「本当ですね……」
「あ、邪魔してごめんね」

デートの続きをするというふたりに、いつまでも邪魔をするわけにもいかない僕は別れを告げる。「またな」「……うん、また」その挨拶がなんだかくすぐったくて、ほんの少しの寂寥感。楽しげに会話をしながら去っていくふたりに、僕はまた会える日を楽しみにしながら背を向ける。
本当に、香純ちゃんと友達でよかった。きっと留三郎ともいい友達になれるだろう。それは希望というより予感、確信にも似ていた。

だから、あの日同じ本を拾おうとして重なった手や、はにかんだ顔に胸が高鳴ったことがあったような気がするけれど、そんなことはやっぱりなかったんだ。


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